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○○○の酢味噌和え

 大好物の野菜だ。酢味噌和えにしようと思ってさっき産直で買ってきた。だが、どういうわけかその大好物の野菜の名前をど忘れしてしまって、今も思い出せずにいる。

 あえて、その野菜のラベルやレシートを確認せずに、もう30分以上も「なんだっけな」と考えて続けている。歳を取ると物忘れなんて日常茶飯事だけれど、こんなにも何かの名前が思い出せないなんてことがあるだろうか。
 春野菜だ。昔からずっと食べ続けている定番野菜である。ほうれん草でもない、小松菜でもない、春菊でもない、○○○の酢味噌和え…。ラベルを見てしまおうか? いや、もう少し頑張ろう。

 そうやってあれやこれやと野菜の名前を並べているうちに、「フルーツバスケット」なるものを思い出した。小学生がレクリエーションなんかでよくやらされる妙な遊びだ。あれは椅子取りゲームの一種だろうね。それぞれに野菜や果物の名前を決めてみんなで輪になり、自分の名前(バナナさん!とか)を呼ばれたら立ち上がって別の席に移動しなきゃいけないやつ。
 それで隣り合った人とお互いに名前をつけるんだけど、小学生のある時、高学年のお姉さんに「じゃ、お姉さんはキャベツね」と言ったらたぶんそのお姉さん、キャベツはダサいと思ったんでしょうね、「やめてやめて、サラダ菜さんにしてちょうだい」と言われてショックを受けたことがある。
 ーーサラダ菜てなんだろう? はじめて聞く名前だった。もちろん食べたこともない。我が家は共働きで、母親が夜遅く帰ってきてバタバタと作ってくれる夕食は、だいたいキャベツ炒めだったーー。

 当時はどこの家でも専業主婦がいて、学校から帰ると、みんながお母さんが作ってくれた手作りクッキーや、ピザトーストや、クレープなんかを食べているのを、私はいつも指をくわえて眺めていた。一度、お友だちの家にお邪魔して、やはりその家のお母さんが、お餅で作ったピザトーストのようなものをおやつに出してくれて、その美味しさに気絶しそうになったこともある。

 「サラダ菜ってなあに?」母親にそうたずねてみても、「さあ、お母さん知らない!」のひとことで終わり。逃げるように職場へと行ってしまう。ーーしょうがない、我が家は貧乏なのだから・・・と思っていた。でも違った。

 いつだったかテレビのコメンテーターが「政治家が子育て休暇を取るなんてとんでもない」と言っていたが、私の母も、我が子をほったらかして、国民のために従事した人である。立派な社会人である。我が家は貧乏などではなかったのだーー。
 それでも、私も兄も貧乏人のように育った。家はゴミ屋敷同然で、服装は汚ならしく、いつも腹を空かせていた。学校では貧乏人と呼ばれずいぶんいじめられた。
 貧富にかかわらず、「生活が荒んでいる」とは、もしかしたら実際の貧乏よりもずっと、子供の人生をこじらせてしまうものなのかも知れないーー。

 さて、なんだかんだともう2時間も経つ。まだ思い出せない。だがこうなったら意地でもラベルは見ないぞ。とりあえず、○○○の酢味噌和えを作ってしまおう。味や香りが、思い出すきっかけになるかも知れない。


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