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無差別凶器なご近所さん

 夜8時過ぎ、インターホンが鳴ったので玄関を開ける。防犯上、普段は何時であろうとアポなし訪問者に応答はしないが、昨日は宅配便が届く予定があったのだ。ネットでMCTオイルをまとめ買いしたので、瓶が割れずに無事に届くといいなぁ、なんてことを考えていた。

 それだから、宅配業者の男性の表情を見て、少し不安になった。彼は「血相を変えて」とでも表現したくなるような、ひどく落ち着かない様子に見えた。消えそうなほどの小さな声でようやく私の住所と名前を口にして「こちらであってますか」というようなことを言ったが、私が答える間もなく彼はさらに声をひそめて早口でこう訴えた。
「変な人がいるみたいですね。いつもこうなんですか? 隣のアパートのようですよ」

 
 ーーそうなのだ。今夜の我々の懸念は、商品の破損どころではない。夕方から、もう何時間も近所中に女性の怒号が響き渡っているのである。
「ふざけんなよぉ! なめんじゃねぇぞぉ!」
 かたぎとは思えないほどの恐ろしい叫び声だ。
 去り際、宅配業者の男性が最後に付け足した言葉が、いよいよ私を悩ませることとなった。
「事件などでなければいいのですが」


 無事に届いたMCTオイルをキッチンの貯蔵庫に並べながら、「事件」というものについて考えてみる。
 殺人や、自殺や、虐待や、無理心中やら。そんなことは毎日あきれるほど発生しているし、近所のコンビニに強盗が押し入っても、知らぬ間に隣家が火事で全焼してしまっても、私の生活にはなんの影響もない。
 でもそれが、これから目の前で起きようとしているのであれば、話は別だ。我々には「通報義務」がある。めんどくせぇ。


 耳で外の様子をうかがう。窓の位置関係上、私の部屋からは他のアパートは見えない。騒音があっても、どこの部屋から聞こえてくるのか住人同士ではなかなか判断しづらい。
 人にはバイアスというものがあって、私はなんとなく「ああ、あの子だくさんのだらしない家庭が親子ゲンカでもしているのかな」という気がしていた。けれども宅配業者さんがいうには、そっちではなく「あっち」の部屋らしい。

 確かに、家族(複数)の声ではない。中年女性ひとりの声しか聞こえてこないのだ。子供の泣き声でもするならば通報の決め手になるのだが、どうにも判断に迷う。
 そうこうしているうちに、電話のような気がしてきた。電話口で相手を何時間も怒鳴り散らしているらしい。尋常じゃない。恥知らずな大音量で、ろれつも回らず、卑猥な言葉も平気で叫んでいる。
「あんたがぁ、トイレで指を入れてぇ・・・」
「あんたがあたしとセックスをしてくれなかった!」
「ふざけんな! あんたのためにあたしの何年間を捧げたと思ってんだぁ!」
 彼女の不満の対象は自分をないがしろにした男(夫や彼氏?)らしいが、我々の懸念は「虐待疑惑」から「アルコール依存性ババアの騒音」へと変わっていったように思われた。


 それでも最終的には誰かが通報したようで、警察が来たのは22時頃であった。相変わらず私からはどこの部屋の誰だか分からないが、彼女は警察に対し開き直った様子で「自分には虐待の前歴がある」ということや、「子供を児相に取られてしまった」とか「今、部屋に娘がいる」とか言っているのが聞こえた。
 娘が部屋にいて、母親があの状態ではやはり「虐待案件」ではないか。しかし3分もせず、警察は引き上げて行った。昨夜はそれきり静寂が訪れた。


 しかし今朝になると、彼女はまた騒ぎ始めたではないか。
「アルコール入れなきゃ喋れないんだよぉあたしはぁ!」
「ふざけんな! あたしをバカにしてぇ!」
 真っ昼間、というよりまだ午前中だ。いや、朝だ。朝からベロンベロンか。やはり電話で相手に向かって怒鳴っている。夜に通報されても翌朝にはまた平気で同じことを繰り返せるのだから、恥も外聞もない。
 理性を失って自暴自棄にふるまう大人は周囲には「無差別凶器」である。危ねぇのである。

 ついさっき、ひときわ大きな怒声がした。
「そっちが自分ちの窓を閉めればいいじゃん! バカじゃねぇの!」
 これはさすがに電話の相手に言っているものではなさそうだ。近所の誰かが注意したものだろうか、それに対して「すみません」と言える状態ではすでになく「バカじゃねぇの!」だもの。無差別凶器の矛先はすでに当事者だけでなく、部外者である我々ご近所さんにも向けられている。警察が把握しておかなければいけないのは、そこなんだよなぁ。矛先。
 外に出るの怖いなぁ。パトロールしてほしいなぁ。




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