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私だって愛し合いたかった。

 5時。早朝から玉置浩二を聴きまくって脳内洗浄をする。自分の濁った思考をすべて洗い流したら、そこに少しでも美しいものは残るだろうか。信念っぽいものがわずかにでも、善玉っぽいものが微かにでも、私の中に、何か頼れるものが、つまりは自分を愛する余地のようなものが、果たしてあるんだろうか。

 世の中にはまれに、とてつもない愛にあふれた人々がいる。与えても与えても、彼らの泉は枯れることがない。愛されて生まれてきて、愛し合って死んでゆく人々。彼らは「世界は美しい」と言うーー。

 とたんに自分の人生が無に思えてくる。毎日、嘘ばかり書いているような気持ちすらしてくる。日記なんて自由に書けばいい。誰に判断されるものでもないはずなのに。
 いや、判断されてきたのだ。学校の宿題には "日記" というものが必ずある。先生が点数を付ける。子供の人生に、マルとかバツを付けるのだ。だから我々は本音を言うことに臆病になる。人前では嘘をついたほうがお行儀が良いのではないか、そう考えるようになる。

 どこにも向かっていないような感覚。ひとり、世界に取り残される。いちばん最初は私はどこでつまづいたんだっけ。中学で完全に孤立するよりも前、小学生の頃の違和感、もっと前、ポニーから落ちて自殺してやろうと企んでいた頃、それよりも前、父親に鼻をつぶされるよりも、母親に無視されるよりも、もっとずっとずっと前。着床前ーー。
 間違えて生まれてくるということがあるだろうか。石ころや何かにつまづいて、弾みでこの世に転がり出てしまうといったようなことが。
 父と母と兄はもともとは幸せな3人家族だったろうに。そこに私がーー。

 ああ、なんてネガティブな朝。私だって玉置浩二となら愛し合いたかった。ちくしょう。
 部屋の温度は16℃。緑茶がみるみる冷めてゆく。今朝は貧血気味。血圧も低い。血圧は子供の頃からずっと低い。調子の良いときでも100を超えることはほとんどない。70辺りまで落ち込むと、死んでしまうのではないかと不安になるほど苦しい。愛し合うどころではない。生きているのが精一杯。突然、めまいや吐き気に襲われる。立ち上がったとたん世界が真っ白になって、天地がひっくり返り、私はふらふらと、死にかけのセミのように壁にしがみつく。数秒間、自分が自分でなくなる。
 こんなことが外出中に起こったらーー!意識を失って車道に転げ出したり、急行列車の前にパタンと倒れ込んだり。そんなふうにして「低血圧」で命を落とす人もいるそうだ。高血圧にも負けない恐ろしさではないか。
 実際、私も小学生の頃にL.Aの街中で倒れたことがある。ただでさえ治安の悪い街で、めまいを起こした私は無意識に親の手を振りほどき、ふらふらと人混みに消えてしまったのだそうだ。幸いすぐに発見されたけれど、驚いたことに私の体は傷だらけであった。意識を失うということは受け身もとれないので、地面に倒れただけでけっこうな怪我をしてしまう。頭を打っていたらと思うとぞっとする。(あるいは死なない程度にやはり打ったのかも知れないが)

 ちょっとしたつまづきが、人生を丸ごと転がしてしまうことがある。あっちでもつまづき、こっちでもつまづき、何をやってもうまくいかないということが。
 愛し合う人々を横目に、私はそんな拙い人生を送る。嘆いたってどうなるもんでもない。つまづいた先でいつまでも寝転がっているわけにはいかないのだ。そのつど立ち上がってまた歩き出さなくてはならない。どんな道であろうと歩くのは私だし、どこへ向かっているかはわからなくても、ここまでは来たのだから。

 先週末、スマホに新しいウォーキングアプリを入れた。毎日5000歩を歩くだけで楽天ポイントが貯まるらしい。機能がシンプルでよい。さあ、少し元気を出そう。これからは(つまづいても)1ポイントはもらえるわけだーー。

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