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あのね...と言ってみる。

 二日前に咲いたばかりのマグノリアの花が、今朝はひどい雨風に打たれてボロボロと散ってゆきなんともかわいそうなのである。
 私の住む地域では桜よりも梅よりも先にマグノリアが咲く。名残雪の中で咲くこともある。まだ肌寒くてもそれでも「もう春だよ」と告げてくれる花だ。

 数年前、このマグノリアのつぼみが、今にも開きそうな顔をしてこちらを向いているのを見つけて「あ!」と思ったことがある。目に見えるスピードでパカッと開花するわけでもないのに、じっとそれを待っている自分にハッとしたのだ。一瞬の出来事であるが、永遠のように満たされた瞬間であった。すなわち「無」の状態である。

 スパに行くと、36~37℃くらいの人肌の湯があったりする。入った瞬間にふわっと自分の体が消えたような感じになる。熱くもなく、冷たくもなく、無。自分の感覚を手放すとこんなにも楽なものなのだと驚く。

 人の頭の中というのは常に様々な思考でごちゃごちゃしているわけであるが、この思考も手放すことが出来たらどんなに快適であろう。
 無駄や、無知や、間違った思考のこびり付いた我々の脳内はいわばゴミ屋敷である。腸でいえば万年便秘だ。ばっちい!

 家の整理整頓や体の健康管理と同じく、心を掃除する習慣もぜひ身に付けたいものである。しかしこれが現代人には難しい。否、現代人は難しく考えすぎなのである。
「瞑想しなきゃいけないんでしょ」とか「チャクラ開かなきゃだめだよ」とか「お布施しなきゃ」とか。酒も飲まずタバコも吸わず食事もせずセックスもせず、それでもハイになれるエキセントリックな坊主 (いわば変人) だけが習得できるウルトラCのように思ってあきらめてしまってはいけない。

 じつは一日のうちに何度も、人は心を無にしているのだそうだ。
 それは、相手から「あのね」と話し掛けられた瞬間であるという。何かを言い掛けた相手に対し、それを聞く(知る)ために待機する瞬間。人は自分の感覚(思考)を手放し、無の状態になる。もちろんこれは一瞬のことで、またすぐに「なんだろう?」「はやく話せよ」「面白い話だといいな」「めんどくさそう。無視しちゃおっかな」などと自利的な思考が沸いてくるのである。

 つまり心を無にする、心をきれいにする、とは「自分の事はさて置き、他をおもんぱかる」というまったく当たり前のことなのだ。
(今夜、パートナーに「あのね」と言ってみるとよい。あなたのために自我を捨てて待機してくれるはずだ)

 そして今にも咲きそうなつぼみが「あのね」の役割を果たすこともある。人は何を見ても学べる。確かに私はエキセントリックな変人であるが、それとこれとは関係ないのである。誰でも心を無にすることは出来るのである。そのことに気づき、積み重ね、習慣化させること。自利的な思考であふれた脳内ゴミ屋敷を解消し、お互い気持ちよく暮らすために。


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