大阪アドレセンス4

会社が分裂し、恩師・小谷野と引き裂かれた僕は、漫画のような大男・大川の下で新規店舗のスタッフとして働くことになる。
大川は何度生まれ変わっても、生涯いじめっ子としての人生を歩むような男だった。一度も負けたことのない自分本位な人間というのは「細かいことは気にしない」という豪気な性格を存分に悪用する。

「オープンみんな気合い入れっぞ〜、おい!全員明日から昼前に来いや」

「すいません僕前まで19時からやったんですが…」

「あ?」

「いえ…わかりました」

出来上がった体躯から出る「あ?」は本当にズルい。50音表の一番最初の文字に関わらず、自分より弱い全ての人間を従わせることができる。「あ」でこの威力なら「む」とかまで進んだら一体どれほどの威力を持つのだろうか…

大川の「あ」に萎縮して下らないことを考えていた。死ぬ前の走馬灯とは、きっとこういう下らない考え事の福袋みたいなんだろうな。

「あ、そうだ、スガワラお前給料いくら?」

「前までは18万でした」

「おっしゃわかった」

何もわかっていない。この巨人はきっと僕の給料を18万にするのではないか?いやでもこの世界には法律というものがある。がしかし大川を見るに、とても労働時間に合わせて給与が変わる計算ができるとは思えなかった。小谷野からもらった僕という人形のリース代、それが18万だと考えているに違いなかった。

人間は誕生以来、動物で唯一頭を使って生き残る術を探し続けてきた。何から生き残るか?それは自然だったり環境だったりするが、主に自分たちよりも「強い」動物に対して考え続けてきたのだ。つまり大川のような「敵がいない」体を持つ個体は頭を使う必要がない。圧倒的な力と大きな声で全ての問題を解決してきたのだろう。この国はアジアの、そして銃国家ではない国なので大川が強い個体であり続ける条件は揃ってしまっていた。

大川にはすでに部下がいた。樋口だ。大川よりも2回りほど小さく、並んで立つと遠近感がバグった。冴えないメガネの、夜の街に迷い込んだサラリーマンだった。

大川が去ると、樋口は肩身の狭さから伸びをするようにデカい声を出す。

「ようこそ地獄へ!ハァーッ!!!」

樋口はテンションが異様に高かった。この後彼とは長い付き合いになるのだが、大川がいない時はいつもこうなる。彼は元々キャバクラが好きで好きでたまらない「本物の」銀行員だった。2年前、大川の働いていた店のキャストと一夜を共にし、「キャバクラはこれで攻略したな!」と満足していたところを大川に捕まり、責任を取る形で働いているらしい。2年間の約束だったそうだが、いつの間にか「次が見つかるまで」「店が閉店するまで」「次の店の立ち上げが終わるまで」とズルズル弱みを刺され続け、結果としてこの店で店長をすることになっていた。

おそらく、と逡巡しなくてもわかるが、何もかもが間違っている。前提も、結果も、現状も、大川は全てをなぎ倒して奴隷を作ったのだった。恫喝があったのかもしれない。辛すぎる労働を納得させるために「キャバクラが好きだからキャバクラで働けるなんてラッキー」と思い込んで日々を過ごしているうちに辞められなくなってしまっていた。眼鏡の奥の目は暗かった。未来を見る目ではなく、失った過去を想う目だった。

これまでまゆさんに「ヌルい」キャバクラ作法を教え込まれていた僕は、樋口に正しい奴隷の作法を学ぶことになる。ブルーライトで照らされたガラスは手垢と汚れ、ホコリが目立つ。これを3種類の布を使って拭きあげる。この時点でもう辞めたかった。
新店舗は床が絨毯だった。コロコロを使って掃除した後に掃除機をかける。理由は女の子の長い髪がたくさん落ちていて掃除機を先にかけると絡まってしまうからだ。

Club Ropeと名前をつけられた店で働き始める。実態はほとんどClub Cielなので僕の知った客も多く来たが、営業時間が昼前からだったので、今までみたことのないような客層の人たちも来ることになる。

この店で一番最初に覚えた客は青ちゃんとデビルマンだった。

青ちゃんは昼過ぎの2時ごろに必ず来る坊主のおじさんで、キャストの指名はなく、いつもフリーで来てはキープボトルの神の河をチビチビ飲みながら取り止めのないことを喋って帰る。必ずスナック菓子を大量に買ってきて僕らに差し入れてくれ、それを食べながら昼の営業をダラダラやり過ごすのだ。
青ちゃんには唯一にして最悪の悪癖があった。
酔っぱらうと必ず便座を下ろした状態でウンコをするのだ。当然コロコロコミックのようなプリプリのウンコではなく、酒を飲んだおじさんのべちゃべちゃのウンコをする。なぜかお尻だけは綺麗に拭いてきて、怒る僕らに微笑みかけながら綺麗なお尻を見せてくる。どんな手入れをしているのか気になるくらい肌艶のいいお尻から、コンプラのど真ん中を貫く汚いウンコをする。

僕らは青ちゃんを愛していた。ウンコ以外が素敵なおじさんは、きっとただのウンコのせいでどの店でも摘み出されてきただろう。僕らはそんな青ちゃんの最後の居場所を作ってあげたくて、毎回ウンコを掃除した。青ちゃんのウンコのためだけにトイレ専用の長いホースを購入した。居場所の無いであろう青ちゃんに、大川獄長のカサンドラに囚われている自分たちを重ねたのかもしれない。2020年、彼はきっと60に差し掛かろうとしているだろう。

デビルマンは水曜日の4時を過ぎると現れる。毎回アルコールを摂取できているのか疑問に思う程度のあらごしみかんをテーブルに置き、必ずカラオケを歌う。一曲目に必ずデビルマンを選ぶから「デビルマン」と呼んでいた。本名は愚か、ボトルの名前もわからない。山のフドウに似た体躯を限界まで丸めて来店する彼は、キャストとほとんど会話をすることがない。

「聞いてください。カラオケお願いします。」

ここまで言うとマイクを両手で握り締め、デビルマンに始まり、阿久悠の曲を次々と歌い上げる。下手ではないが、おじさんの大声の域を出ないその歌声にはクレームが非常に多く届いていた。「すんません、これからレコーディングらしいんですよ」と適当な嘘をついて何度他の客にどつかれたか覚えていない。

水曜日のデビルマンはキャストのバースデーだろうが、早い時間のシャンパンラッシュで盛り上がっていようがお構いなしにデビルマンを歌うが、キャストにセクハラもしなければこちらにそれ以上の要求もしてこなかった。

初週で思い知ったが、今まで夜の客しか相手にしてこなかった僕にとって昼キャバの客層はカオスを極めていた。昼から夕方、客が引く17時に看板を出しに外へ出る。

五番街は屋根付きの商店街だった。隣のホストクラブや地下のガールズバーはこれから開く準備をしている。どれだけ晴れていても、見上げてあるのは濁った白いプラスチックの屋根で、日の光は差し込まないでぼんやりとアスファルトを照らす。当時結果も出せずに東京から逃げたパッとしない自分の人生と重なって、その鈍い明かりがそのまま全部肩に乗っかったように疲れに疲れる。カサンドラは現実だ。

走り出して逃げたい気持ちはあったが、小谷野に拾われた事実が足枷となって結局店のビルに戻る。元々西成で自分を売るつもりだったのに贅沢な話だ。手に入れた楽を大事に大事に抱え込もうとしている自分をマルボロの煙で流し込む。

理屈なんて一つもないのに「ここが踏ん張りどころだから」と自分に嘘をついた。せめて地獄のアトラクションを全部見てからにしよう、と。


ー続ー

PS
投げ銭しやすいように課金設定を入れただけなので、これ以上文章は続かないです。

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