見出し画像

風にさらわれた恋(3)

―今から40数年前の、まだ携帯もSNSもない頃のオールド・ファッションなラヴ・ストーリー

翌週、教授の研究室に呼び出された。少し面倒な事になってしまった。提出したドラフトを教授が気に入ってしまい、今秋に開かれる小規模な学会で発表しないかという事になった。以前なら小躍りしただろう。が、この時は、自分でもびっくりするほど乗り気ではなかった。が否とは言えない。そんな事したら、このギルド社会から追放だ。渋々承知した。そんな思いはおくびにも出さずに。だが、どうしよう。やりたくない。
思案しながら駅へと歩いていると、誰かが故意にぶつかってきた。案の定、平田だった。
「何か落ち込んでんじゃん。振られたのか」
「そうじゃない。普通だったら喜ぶべき所だろうけど。嫌なんだ」
「何か『ブルーにこんがらがって(26)』るな。ちょっと話聞かせろよ」
自宅の最寄り駅近くの居酒屋に入った。何故か馬場さんもいた。
「何でお前がいるんだよ」
「いて悪い。せっかく相談に乗ってあげようと思ったのに。態度悪いぞ」
「二人とも冷静に。馬場さんは俺が呼んだ」平田がこの諍いをたしなめた。
ビールを飲んだ。少し落ち着こう。それからおもむろに経緯を話し始めた。
「チャンスじゃない。何で落ち込むの。松本さんの思考回路が分らない」馬場さんが言った。
「俺も同じ意見だよ。何考えてんだよ。いい話じゃない。それとも自信ないの」平田が言った。
「できるとは思う。発表する事に不安はない。ただやる気が全くない。千恵子の事で頭が一杯なんだ」
「ガキじゃあるまいし。これはこれ、それはそれっていう考え方出来ない」平田はあきれたという顔をして、吐き捨てるように言った。
「千恵子さんとやらも、将来教授夫人になれるかもしれないと思ったらきっと喜ぶでしょう。キャリア・アップの為のワン・ステップよ。彼女の為って考えたら」
馬場さんも稀に良い事を言う。そう考えよう。事はそんなに甘くはない事は重々知っていたが、霧が晴れたように思えた。
「ありがとう」馬場さんをハグしようとしたら、ピンタが飛んできた。
「痛いな。何すんだよ」
「私だって選ぶ権利がある」何故か勝ち誇ったように馬場さんは言った。
「だけど相変わらず、単純な奴ちゃな」平田の発言に、馬場さんが大きくうなずいた。
「千恵子にもそう言われた」
「お前、もう尻に敷かれてんの。ところでうまく行ってんの」
「5年後には『4人の子持ち(27)』になっているかも知れない」
「どういう事。長野でどこか案内してもらったんでしょ。どうだった」馬場さんが聞いた。
「きれいだった」
「何が」
「千恵子が」
「お前、殴られたいのか」平田が言った。
「戸隠と野尻湖に連れてってくれた。でもあまり覚えてないんだ」
「何してたの」
「千恵子の部屋でオムライス食べてた」
「他には」
「抱き合っているうちに時間が過ぎてしまった」
「あきれた。またやっちゃたの。あっ、そうか、それで子供がどうのこうのって話していたんだ」
「馬場さん、口に気をつけて」平田が言った。
「色ボケだ。嫌だ、松本さん、少しやつれているよ」
「馬場さん、口に気をつけて」平田が繰り返した。今度のほうが口調はきつかった。
「とにかくバランス感覚だよ。あまり一つの事にのめり込まない方が良いよ。のめり込んでいる間に周りの状況が一変していて、にっちもさっちもいかなくなるという事が多々あるからな。お前は何かに夢中になると、周りの状況を顧みずに、猪突猛進するタイプだから、注意した方がいいよ。少しは将来の事考えた方がいいぞ。大切な人ができたんなら、特にな」
平田の説教に、馬場さんも大きくうなずき、「私もそう思う」と言った。
仰せの通りだ。が、今の私には無理そうだと思った。恋に狂っていた。行くとこまで行くしかないと思っていた。

馬場さんはこれから用があるとかで先に帰った。平田と私は店に残った。
「さっき馬場さん、能天気に教授云々とか言っていたけど、老教授が退官して、ポストがあくとか、よっぽど運が良くなきゃ教授になんかなれないよ。宝くじの高額当選みたいなもんだ。先輩達の苦労している姿見てごらんよ」
「確かに。非常勤講師を掛け持ちして、奥さんにパートで働いてもらって、子育てしている先輩見ると何か悲しくなるよな。これが自分の将来の姿かと思うと何か惨めになる。」
「まだ今なら専任講師になれる可能性はあるからいいよ。だけど俺たちの頃にはますますその機会はなくなる」
「一生アルバイトって事か」
「生活に追われて、自分の研究なんてやってる暇なくなる。だから、お前が学校辞めたいって気持ちもわかるんだ。いままで言ってた事と矛盾するけどな。苦労はするだろうけど、ここらで方向転換して、普通に就職するというのも選択肢の一つだと思うよ。研究は趣味として地道に続ければよいだろうし」
「お前は何か考えてるの」
「俺は将来、ミステリーの翻訳家になろうと思っている。当分院生続けて、その後、大学で教えはするだろうけれど、その道で食えるようになったら、即鞍替えする」

平田の言う通りだ。が、これは物事の一側面に過ぎない。費用対効果を考えれば、仏文なんていうお嬢さんの習い事みたいな専攻は誰も選ばない。自らの人生をドブに捨てるような真似はしない。が、人間の選択は合理的ではない。将来保証されている地位や収入とかだけで進路を選ばない人間も少数ながらいる。人生を変えられたような、雷に打たれたような読書体験をした者のみが、読書・思索行為で享楽を味わった者のみが、その経験の程度の差こそあれ、人文学系の院に集まってくる。文学であれ、哲学であれ、音楽であれ、絵画であれ、映画であれ、二十歳前に震えるほど感動するものに出会った者は躊躇なく、後先考えずその道に進む。そういう側面もあるのだ。私の場合は、高3の夏休みに読んだ、サルトルの「嘔吐」がそれだ。今から思い返すと何に感動したのか甚だ怪しいが、それはカントの物自体への、ラカンの現実界への扉を開いたのだった。
今の状況は、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」を聞いて、飛び上がる程感動して、満足に弾けないギターを手にストリートへ飛び出したのはいいが、自分にはチャンスも才能もない事に気づき、どうしようと途方に暮れているようなものかも知れない。パンクのように初期衝動をリセットした方が良いのかも知れない。

店を出た。いつになく真面目な暗い話になった。そう、俺のやってる事は所詮趣味なのだ。趣味を職業とする事は、夢を現実にしようとするのと同じく、悪夢と化す。今夜の闇はいつもより深いように感じた。

階段を降りると真っ暗だった。目を開けてようが、閉じてようが関係ないくらいの深い闇だった。進むべき方向が全く分からない。それでも前へ進んだ。思わずすり足になってしまった。いくら進んでも出口が見えない。ここはどこなんだ。それでも進むと、やっと出口の光が見えてきた。ほっとした。
「予想以上に真っ暗だったね。迷いそうだったよ」私は言った。
「お戒壇巡りだもの、当然よ。それより極楽の錠前触った」千恵子は言った。
「何それ。触ってない」
「君、阿弥陀様に迎えに来てもらえないよ」
「どういう事」
「君は極楽には行けないって事。可哀そうな人」千恵子がいたずらっぽく微笑んだ。
「『Straight to Hell(28)』か。それより、お腹すいた。何か食べない」
「オムライスにしましょう。材料買うからスーパー付き合って」
「分かった」たまには違うものも食べたかった。

2~3週間毎に長野に通った。初めは「良く来るね」と言っていた千恵子も、今では当然のようにこの事を受け入れてくれていた。通い慣れて、駅から千恵子の住むアパートへの道も、今では彼女の道案内がいらなくなっていた。徐々に土地勘がついてきた。2度目に行った時は、洗面所のコップの中の歯ブラシが2本になっていた。タオル掛けにタオルが2枚かけてあった。3度目に行った時は、バスタオルがもう1セット用意されていた。4度目に行った時は、箸、茶碗、マグカップがもう1セット用意されていた。何故かマグカップには猫のイラストがついていた。私が彼女の日常の一部にだんだんとなっていく。それが嬉しかった。これが姉妹的エロスって奴か。
特別に何するわけでもなかった。朝起きると、今日何しようか、何処行こうかと、ベッドの中でじゃれ合いながら話し合い、善光寺にお参りし、長野市内を散策し、スーパーで買い物をして、部屋に戻り、ビール、ワインを飲みながらオムライスを食べ、シャワーを浴びて、抱き合いながら眠るというのが、ルーティンだった。幸せだった。時には、小布施に栗のジェラートを食べに行ったり、近くの温泉に行ったり、彼女のアパートの近くを流れる小川の岸辺で四つ葉のクローバーを探したりもした。二人で過ごした良い時間(La bonne heure)が幸福(La Bonheur)を紡いでいった。「我が人生最良の日々」が続いた。こんなに幸せでいいのだろうかと思うと怖いくらい幸せだった。「お互いつらい目にあったんだから、その分私達には幸せになる権利がある」という千恵子の指宿での台詞の意味が分かったような気がした。

発表はあがってしどろもどろになった所はあったがおおむねうまく行った。バンベニストに於ける音韻論の影響と、階層理論についてバンベニストの論文に書いてある通りの事を言葉を変えて言っただけだ。単なる紹介だ。でも、これでいいのだ。余計な事をしちゃいかん。教授は満足気だった。後は小論文執筆のみとなった。年内までに締め切りは延ばしてもらったが。いかんせんやる気がない。長野で就職して千恵子と暮らしたい。その事ばかりを考えていた。そんなある日、研究棟で馬場さんと偶然会った。
「松本さん、発表終わったんだって。どうだった。うまく行った」
「どうでもいい。教授は喜んでいたよ」
「相変わらず、素直じゃないな。君のキャリア・アップにつながんだよ。喜んだらどう」
「千恵子に会いたい」
「馬鹿か。相変わらず色ボケしてるね。それはそうと、私も今度授業でプレゼンするんだ。課題の本、言語学関係なんで、いまいちわからない所が多々ある。今週末の連休の一日、私につき合ってくれない。松本さんその道のエキスパートでしょ。教えて欲しいんだ。それとも長野行くの」
「行く予定だったんだけど、都合悪くなったから、来週にしてって連絡あったんだ」
「分かった。それで機嫌悪かったんだ。本当単純な奴」
「じゃー、週末俺の家で。平田も来るの」
「考えてなかったけど、平田君も呼ぼう。松本さんと二人きりだと襲われるかも知れないから」
「あのな―」

週末の勉強会は平田の都合で金曜の夕方からという事になった。平田は早くても7時頃になるだろうから、勝手に二人で始めておいてくれという事になった。
近頃流行のシニフィアン、シニフィエの説明から始めてと、いつになく真面目に馬場さんが言った。何冊かの入門書にざっと目を通したそうだ。が、「木」という言葉は「キ」という音と「木」の概念で成り立っているとか言われても、何のこっちゃって感じだったそうだ。
「言語記号はシニフィアンとシニフィエの結合で成立している。両者はいわばコインの表裏の関係にある。ここまではOK」
「OK」
「シニフィアンっていうのは記号の表現面。言語記号の場合だと音だよね。シニフィエは記号の内容面。厳密ではないけどまあ意味と考えても差し支えはない。ここまでOK」
「OK」
「じゃー、例として、言語記号ではないけど信号を考えてみよう」
「交通信号?」
「そう。では信号のシニフィアンって何だ?」
「解らない」
「シニフィアンって記号の表現面だから、信号の場合は色。赤、黄、緑って色。じゃ、シニフィエは。何だと思う」
「止まれとか、注意とか、進めとかその色が示しているもの?」
「そう、その通り。その両面で信号は成立している。言語記号も同じだよ。『木』の例より解り易いでしょ。そう考えれば、ソシュールの言った恣意性という概念だって簡単に理解できる。何で赤が止まれじゃなきゃいけないんだい。止まれが緑だって不思議はないでしょ。シニフィアンとシニフィエの結びつきは恣意的であるとはそういう事。これを縦の恣意性っていう。解った」
「解った。私初めて松本さんの事尊敬したよ。いままでは単なるゲス野郎だと思ってた」
「随分言ってくれるじゃん。さらに先へ進むと、ソシュール・バルトの言うシニフィアンとラカンの言うシニフィアンが違うの知ってる。しかも微妙に重なってるから区別するのに、余計たち悪いんだけど」
「ラカンって。あの難解を極めるラカン」
「そう。盗まれた手紙で、当該の手紙をシニフィアンと言ってるけど何故だかわかる」
「分からない」
「表現面だけあって、内容面が何もないからさ。つまり手紙は存在するんだけど、それがどんな手紙なのか内容は全くわからない。だから、シニフィアンと言っているんだ。世の中の手紙全てがシニフィアンではないからね。ここ誤解しないように」
「…」
「今言ったようなシニフィアンの事をラカンは純粋シニフィアンと呼んでいる。これはソシュール・バルトのシニフィアンと同義だよね。ところが、シニフィアン連鎖と言った場合には全くラカン独自の概念になる」
「どこが違うの?」
「ソシュール・バルトのシニフィアンはあくまでも分析的概念であるのに対し、ラカンのそれは総合的(Synthétique)な概念でもあるんだ。比喩的に言えば、前者は微分的、後者は積分的と言えるかも知れない」
「具体例を出して」
「比喩的に言うけど、『小津はシニフィアンの映画、それに反して溝口はシニフィエの映画』という事をソシュール・バルト的観点に立てば言える。ところが、ラカンの立場にたてば、どちらもシニフィアンの映画なんだ」
「だんだん分からなくなってきた」
「分からないかなー。じゃー、もう一つ例を出せば、『松田聖子はシニフィアンを、中森明菜はシニフィエを歌う』という事をソシュール・バルトの観点に立てば言える。ところが、ラカンの立場にたてば、どちらもシニフィアンを歌ってるんだ。これでどう」
「分からない。松本さん暴走している。でもイキイキしているのわかる。目が輝いているよ。普段は死んだ魚のような目しているのに。やっぱ学問続けた方がいいんじゃない」
「できればね。でも半ば道は閉ざされている」
「何が閉ざされてるって」
平田が遅れて到着した。もう7時過ぎだった。みんな揃った事だし、ここらで中断して夕飯を食べに行こうかと話していた時、電話が鳴った。二人には先に行ってもらった。
千恵子からだった。用事が急遽なくなったので、都合よければ明日来ないという電話だった。キノコ狩りに行った職場の同僚からキノコを沢山もらったので、今回はオムライスでなくて、キノコのおやきを食べさせてあげるという話も付け加えた。
「嬉しい。じゃー、明日行くね。おいしそうなワイン買ったんだ。一緒に飲もう」
この電話で私はすっかり腑抜けになってしまった。

ファミレスに着くと平田が切り出した。
「何か急用だったの」
「千恵子が明日来ていいって。嬉しい」
「どうりで。さっきと表情全然違うよ」
「心ここにあらず」馬場さんが言った。
「勉強会どうする。続行できる。中断しても良いんだよ。発表はまだ先だから何とかなるから」馬場さんが続けた。
「はっきり言ってもう今日は無理。御免。」馬場さんに頭を下げた。
「しょうがないな。じゃ、来週この続きって事にしましょう」馬場さんが女神に見えた。
「俺来たばっかりなのに中止かよ。ビールおごれよ」平田が怒って言った。
「平田君に質問あるんだけど、男の人って恋すると誰でもこんな風になっちゃうの」
「こいつの場合はちょっと極端。普通ここまではならない。恋する気持ちは隠す。不必要に表には出さない」
「単純な奴」二人は私を指差し、同時に言った。ハモっていた。大爆笑した。

千恵子は浮かぬ顔をしていた。思案の理由を知りたがったが、聞いちゃ悪い事もあるからなとも思っていた。千恵子が切り出した。
「お願い、明日、私と一緒に実家につき合って」
「えっ、俺スーツ持ってきてないし。何かお土産も買わなくちゃならない。でもどうして。まさかできちゃったの。この前来た時、この頃酸っぱいものばっかり食べたくなるんだと言ってたから、ちょっと気がかりだったんだけど。やっぱり。俺責任取るよ」
「違う、先走らないで。私が精神的に病んで実家に面倒見てもらっていたの知ってるでしょう。実は独立する時も援助してもらったんだ。で、その代わりと言ったら何だけど、月に一回は実家に顔出すようにと言われていた。だけど、頻繫にやってくる誰かさんのせいでここ数ヶ月帰ってない。で、この連休には絶対帰省するようにとの電話があった。この週末は九州旅行で出会った友達が遊びに来るから駄目って言ったら、一旦は了解してくれた。ところが今朝電話が来てそのお友達も一緒に連れてらっしゃいという事になってしまった。断り切れなかった。事情は分かった?」
「両親に千恵子さんをくださいって言うんでしょ」
「それって遠回しのプロポーズ」
千恵子の鋭い射るようなまなざしと真剣なトーンが私の軽口を諫めた。反省した。こういう事をギャグにしてはいけないのだ。自分の発言の重さを知った。即座に首を縦に振った。
「嬉しい。いままで生きてきて一番嬉しいかも。ありがとう。」千恵子が喜びで発火したように見えたのは、私の錯覚だろうか。
「でも明日はその台詞言わないで。まだ時期尚早。今言ったら父親と兄に絶対反対される。だって君まだ学生でしょ。明日は単なるお友達としてついてきて。ちーちゃんとか言ったら絶対ダメだからね。千恵子さんだからね」
「分かった。でも俺自信ないから留守番しているよ」
「そんな事言わないで。私も不安だけどしょうがないよ。行こう」
押し切られてしまった。午後の散歩のついでに何かお土産を見繕おう。その日は秋真っ盛りのすがすがしい晴天だった。空が高い。ともあれキノコのおやきが楽しみだ。

次の日はいつもより早起きだった。千恵子に急かされ10時過ぎには、実家の最寄りの駅に降り立った。長野から小一時間の所だった。澄んだ冷気が心地よかった。出発するころには田園の底にこびりついていた靄ももう蒸発していた。駅から20分ぐらい歩いて生垣に囲まれた大きな農家に着いた。千恵子は歩くスピードを落とさずにその家の敷地の中へと消えていった。門から玄関まではともちゃん家と同じぐらい離れていた。途中にトラクターや農機具が納められた大きな納屋があった。玄関には松本と表札がかかっていた。そうか、ここが千恵子の実家か。豪農だ。

「ただいま」と少しよそゆきの千恵子の声が玄関に響いた。
キジトラの猫が飛んできた。初老の女性が猫を追ってきた。年を取ったら千恵子もこうなるだろう容姿をしていた。
「この子隙あれば外へ飛び出そうとするんだから」猫を抱き上げてその女性は言った。私をちらっと見て少し驚いているようだった。
「あらまー、お友達って男の人だったの。初めまして。千恵子の母です。今日は遠い所わざわざこんな田舎まで足を運んでくださってありがとうございます。どうぞおあがりください」
「松本広太と申します。初めまして」お土産を渡した。千恵子と飲もうと思って持ってきた2本のワインのうちの1本だった。
「奇遇だわね。あなたも松本。千恵子、この人と一緒になっても名前変わらないわよ」
「そんなんじゃない。ただの友達」千恵子は怒っていた。
靴を脱いで、千恵子の母親の後をついて行った。逃げ出したかった。千恵子にSOSを送った。が千恵子もよそゆきの顔をしていた。客間に通された。父親らしき人物が座っていた。
「お父さん、大変、千恵子が彼氏連れてきた」母親は喜んでいた。声の調子でわかる。父親は一瞬敵意に満ちた視線を私に投げたが、すぐに目を細めて
「千恵子の父です。今日は遠い所までわざわざどうも。疲れたでしょ。何にもないけど、ゆっくりしてって下さい」と言った。怒りは氷解したようだ。良かった。これで千恵子の両親は何とかクリアできそうだと思った。一安心だ。
「私達、そんなんじゃない。ただの友達。誤解しないで」千恵子の声には怒気が含まれていた。
「あら、そうなの。何でもいいからお昼にしましょう。少し早いけど。食後にお友達とリンゴ狩りに行くといいわ。千恵子ちょっと手伝って」
母親には二人の関係は見透かされていたようだった。父親はそんな母娘のやり取りを優しく見守っていた。千恵子が大切にされているのが分った。箱入り娘か。
昼食はおやきだった。昨晩食べたばっかりだったので、思わず苦笑してしまった。それを見ていた千恵子は私をにらんだ。何をしているかとか、何処に住んでるかとか、兄弟はいるのか等々根ほり葉ほり聞かれた。こういうの身体検査っていうのだろうか。地雷を踏まないように注意した。
「ほー、大学の先生の卵か。再来年あたりにフランスに留学する予定なのか。大したもんだ。家は代々農家だから、全く違う種類の人間の血が家の家系に入る事になる。千恵子いい人見つけてきたね」父親は酒も入り機嫌がよくなって放言した。母親も微笑んでいた。
千恵子は相変わらず怒っていた。
「そんなんじゃない。ただの友達」
「この子を九州に送り出した時は、本当に大丈夫かしらと不安だった。でも、九州旅行から帰って来た時、何処かこの子嬉しそうだった。旅行前に比べて格段に元気になっていた理由がこれでわかったわ。実家に寄りつかなくなった理由もこれでわかったわ」母親がしげしげと私を見ながら言った。
「そんなんじゃない。勝手に話作らないで」
「はいはい。わかりました。ただのお友達よね」千恵子の怒りは母親に見事にかわされていた。見透かされている。
私はどういう顔をしたらよいか分からなかった。幸いキジトラの猫がそばを通りかかったので、猫と戯れていた。千恵子も私の後ろを通った。背中に軽いケリが入った。「これ以上酒を飲むな。余計な事ペラペラしゃべるな」と言う警告だった。
「松本さん、リンゴ狩りに行こう」
「わかった。ちーちゃん。いけない千恵子さん」
千恵子の瞳に怒りが一瞬灯った。母親は微笑みながらこの二人のやり取りを見ていた。

「もう、まったく」
「そう怒るなよ。いくら取り繕うと、お母さんには見透かされてるよ。もう自然に振る舞おうよ。でも、お母さんもお父さんも良い人だね」
「まったく。君って本当能天気だよね」
「皆に言われる」
千恵子が笑った。良かった。手をつなごうとしたが、振り払われてしまった。まだそこまでは機嫌が直ってなかった。
「ちーちゃんの家、凄いね。豪農じゃん」
「外から見ると羨ましそうに思えるけど、本当は大変だよ。両親がもう年だから、実質兄貴が取り仕切ってんだけど、資金繰りとかで苦労してるよ。相続の事考えると頭痛くなるって、いつも兄貴が言ってる」
何をやっても大変なんだと思った。さっきは千恵子の親父さんに留学云々と言ったけど、給費留学生として留学しなければ、留学は単なる遊学となってしまう。キャリアにはならない。給費留学生になるには難しい試験が待っている。驚いた事に、数年後、馬場さんはそれに見事合格した。

10分程歩いてリンゴ園に着いた。広いリンゴ園だった。奥へ奥へと進んでいくと、方向感覚を失い迷いそうになる。まるで、近道をしようと森に入ったら道を失い彷徨ってしまったという感じのコクトー・ツインズの音楽のようだ。リード・ヴォーカルのエリザベス・フレイザーの声は素晴らしい。天使の声かあるいは堕天使の声だ。千恵子は私の天使なのだろうか、それとも堕天使なのだろうか。ティム・バックリーの「警告の歌」のエリザベスのカバーは特に絶品だ。その曲が入ったコンピレーション・アルバムのタイトルはディス・モータル・コイル。シェークスピアだ。「この世の憂き事」か。確かにこの世は惑わしい事であふれている。

「もうこの辺にしない」私の後をついてきた千恵子が言った。
私が振り向くと、追いつこうとして歩を速めた千恵子に正面から危うくぶつかりそうになった。
「危ないよ」
「御免。ちーちゃん」
そのまま抱きしめ、キスした。舌を絡めた。しばらく抱き合っていた。
「バカ、誰かに見られたらどうするの。ここじゃダメ。我慢して」
千恵子に熟したリンゴの見分け方、枝を傷めないリンゴの取り方を教さわった。収穫作業はあまりに面白かったので、取り過ぎないようにと言う千恵子の注意をつい忘れてしまった。
「こんなに取っちゃってどうするの。持って帰れる分だけって、あれほど言ったのに。もう知らないよ」怒られた。
その時、作業服を着たがっしりした体格の三十半ばの男が、リンゴ園の奥から現れた。
「どうしたんだい。だいぶご立腹のようだな」
千恵子の兄だった。挨拶の後、簡単な自己紹介も済ませ、握手をした時、「君、きれいな手をしているね」という鹿児島での千恵子の台詞を反射的に思い出した。太い二の腕。その手は節くれだってごっつかった。いかにも農夫の掌だった。私とは正反対だ。彼の瞳の奥に私に対する殺意に近い敵意を見たのは気のせいだったろうか。
収穫したリンゴは千恵子の兄がトラクターで実家まで運んでくれた。その後を追って実家へ戻った。母親に夕飯を誘われた。千恵子に目配せした。千恵子は今夜7時に長野市内のレストランに予約してあるから無理と言った。予約なんてしてたっけ。余計な事言ったら怒られる。ここは千恵子に従おう。2~3回やり取りがあった後、兄がクルマで千恵子のアパートまで送っていくという事で話がまとまった。丁重に別れの挨拶をし、お土産のお礼を言った。
「また、千恵子と一緒に遊びに来なさい」
「ありがとうございます。またお邪魔させていただきます」
この言葉を発した途端、千恵子は私をつねった。「調子に乗るんじゃない」という警告だった。

帰りのクルマの中では地雷を踏まないように注意した。千恵子と兄の会話を聞いていて、仲の良い兄弟だと思った。そのうち私は寝てしまったようだ。千恵子の実家を出た時、すでに暮れかかっていたが、目が覚めるとあたりは漆黒になっていた。ネオンサインが、窓ガラスの表面を流れていた。街中を走っている事が分った。
「着いたよ。起きて」千恵子は言った。少し怒っている。能天気によく眠れるねという嫌味が表情から読み取れる。
「今日は慣れない所をいろいろ動き回ったから、疲れたんでしょ」千恵子の兄は優しかった。
「今日はどうもありがとうございました」
「ところで松本さんは今日どこに泊まるの」
「ホテルです。荷物を千恵子さんの所におかせてもらっているんで、それをひき取ったらホテルに引き揚げます」咄嗟に嘘をついた。
「じゃー、ホテルまで送ってあげるよ」
「いやいや、それは結構です。それより車から荷物下ろすの手伝いますよ」
「じゃー、千恵子鍵開けて」
大量の米、野菜、リンゴを千恵子の部屋まで運んだ。何往復かした。運び終わると、
「トイレ貸りるよ」と兄貴が言った。
トイレから出てきた兄は顔色を変えていた。私をにらみつけた。不動明王みたいな憤怒相だった。殴られるかと思った。
「千恵子。ちょっと来い」
二人は私を残して、部屋を出て行った。クルマのドアを乱暴に閉める音が聞こえた。どうしよう。私もクルマに行って話し合いに参加した方が良いだろうか。そんな事したら話がこじれるだけだろうか。かれこれ30分ぐらい経ってから、ドアの開閉音とエンジン音が聞こえた。どうやら兄は帰ったようだ。千恵子が疲れた顔をして部屋に戻ってきた。
「まったく、もう」
「何かあったの」
「他人事みたいに言わないでよ。みんな、あんたのせいよ」
「俺が何したっていうんだい」
千恵子と珍しく喧嘩になった。千恵子は、いつもは彼女の怒りをまともに受け止めない、私の頭に血が上った様子を見て驚いたようだった。
「君怒るんだ。意外。君が怒るとこ初めて見た気がする。いつもと違って頼もしかった。見直しちゃった」
この言葉を聞いて、怒る気にもならなくなった。二人で大爆笑した。
「兄貴が洗面所でコップの中に歯ブラシが2本あるのを見たんだって。よく見るとタオル掛けにタオルが2枚かかっている。これはあやしいぞと思っていたら、ゴミ箱の中に決定的な証拠を見つけたんだって」
「決定的証拠って何」
「使用済みの避妊具」
「トイレから出てきたお兄さんがもの凄い形相で俺をにらみつけたのはそのせいか。」
「そう。そうとう絞られた。『ふてい奴だ、妹に手を出しやがって。ぶっ殺す』って言ってたよ」
ウォ―レン・ジボンとスプリングスティーンの共作Jeannie Needs a Shooterの構図だ。千恵子を我が物にするには彼女の父親ではなく兄と決闘する必要があるかも知れない。でも、実際に、あの丸太のような太さの二の腕で、ごついこぶしで殴られたら、歯を折るどころじゃすまない、殺されるかも知れない。
「あの人は悪い人じゃない。私、あの人に遊ばれてるわけじゃない。彼の私への思いは真剣なの。責任はとると言っている。お願い、私達を信じて。長い目で見守ってと、必死で説得した。『お前がそういうなら、しょうがない。ただ親を泣かせるような真似だけはするなよ。言ってる意味わかるよな(29)』と言って最後は納得してくれた。大変だった。それなのに『何かあったの』と他人事みたいに言うんだもの、頭来ちゃった」
「御免。それにしても、ちーちゃんは家族皆に心配されてるんだ。うらやましいよ」
「当たり前でしょ。私美人だもの。悪い虫がつかないようにいつも心配してくれてるの。もう虫が寄ってきちゃったけど」
「俺、悪い虫」
「かもね。少なくともあまり良い虫ではないわね」
「酷い。俺帰る」
「嘘よ。冗談。お腹すいちゃった。何か食べましょ。何がいい」
「どうせまたオムライスでしょ」クッションが飛んできた。

オムライスはきつかったのでオムレツにしてもらった。ちょっと焦げたオムレツ、実家からのお土産のおやきと夕べの残りのおやき、もぎたてのリンゴ、そしてビール、ワインと焼酎、ちょっと変わった組み合わせのメニューだった。
「今日は疲れた」千恵子が言った。続けて、「でも、これで実家にも顔出せたし、そういう意味ではよかった。しかし、君取り入るの上手いよね。気難しい父親と話し合わせてたじゃない。びっくりしちゃった。営業できるよ」
「たまたまだよ。でも、俺ついていって良かったのかな。今さらだけど」
「親にはもうこれ以上余計な心配かけたくなかった。だから君との事、親や兄貴に秘密にしてたんだ。きちんと決まってから言おうと思ってた。でもばれちゃった。これからいろいろ言われるだろうな」
「御免」
「君が謝る事じゃないよ。もうこの話止めない。関係ないけど、このワインおいしい。残りは全部私の物だからね。あーげない」
ほろ苦い夜だった。こういう時は酔うに限る。ワインは千恵子に独占されてしまったので、私はビールをがぶ飲みした。一枚の毛布の中で半裸で身体をぴったりくっつけていたせいか晩秋の夜の冷気はあまり感じなかった。酔いと疲れのせいか、毛布の中の二人の自我は溶解していった。「一」への回帰だ。シャワーを浴びてもう寝よう。長い一日だった。

「一体全体、構造分析ってどうやるの」馬場さんがいきなりド直球を投げてきた。
「バルトの『物語の構造分析序説』、トドロフの『詩学』を読めば書いてあるよ」
リンゴを赤ワインで煮つめながら言った。もう火を止めるタイミングかも知れない。
「ちょっと不親切、そんな態度だと千恵子さんに振られるぞ」
「うるさい。縁起でもない事言うな」今の私には千恵子のいない人生なんて考えられない、と思案していたら、焦げ臭いにおいが鍋から立ち上ってきた。慌てて火を止めた。少しぶっきらぼうだったようだ。反省した。
「それらの本ではロシア・フォルマリズム以来の構造分析の歴史を概観している。現在の主要な潮流についての重要な指摘もあるし、分析に必要な幾つかの概念装置についても詳述してある、興味があるんだったらお勧めだよ。ただ…」
「ただ何」
「実際に分析はしていない。プラクティスではない」
「えっ、バルトは他の著作でバルザックのサラジーヌについて分析しているじゃん」
テーブルの上のリンゴで遊んでいた平田が口をはさんだ。
「あれはテキスト分析。厳密な意味での構造分析ではない」
「何かこれぞ構造分析というような実践例はないの」
「あるにはある。ただし文学の分野ではない。レヴィ=ストロースの神話分析が数少ないその実践例」
「神話学とかいう『密から灰へ』他4冊の分厚い本か」平田が言った。
「あれ読むのは大変だよ。お勧めはアズディワル武勲詩か、コミュニカシオンという雑誌で、レヴィ=ストロースの分析した神話を、グレマスが再分析したエッセイ。あれ読むと構造分析ってこうやるんだっていう概観が分る」
「もう少し具体的に言って」
馬場さんが鍋の中身を試食した。OKのサインを私に送った。大丈夫だったのか。良かった。焦がしてしまったと思った。
「構造分析には2つの大前提がある。まず徹底的に作品論であるという事。書いた人の自伝的事実だとか時代背景だとかのテキスト外部的要素は、括弧に入れる。等閑視する。この立場に立てば作家なんて単なる非人称的主語、動作主に過ぎない。2番目にフォルマリスムに徹底する事。現象そのものにとらわれずに、現象を諸関係の束とみなして、現象を支配する法則を探る。この二つが大前提。OK」
「作家作品研究に慣れ親しんでいたせいか、いまいちぴんと来ない。」
「要は分析対象のできるだけ正確なシミュレーションを作ればいいんだ。作品というブラックボックスに、こういうインプットをすると、アウトプットはこうなるというような、その作品に固有な語りの回路を正確に記述すればいいんだ。それはバルトも言ってるよ」
馬場さんは冷蔵庫の扉を開けてアイスクリームを取り出した。つぎに食器棚から大きな深い皿を取り出すと、その皿にリンゴの赤ワイン煮とアイスクリームを大胆に盛りつけ、テーブルの真ん中にどんと置き、取り皿とスプーンを私と平田に配った。うまそうだった。
「馬場さん、いい奥さんになれるよ」平田が言った。
「みんなどこに目をつけてんだろう。不思議だよ。こんなにかわいいし、おまけに気も利くのに誰も私にふり向かない」
平田と私はふきだしそうになった。
「ひとが食べてる時に冗談は言うな」私が言った。
「冗談じゃないよね。本当の事だもの。ネー平田君」
平田は一瞬、何で俺に振るんだという表情をしていたが、無視を決め込んでいた。
「構造分析の話、何処まで行ったっけ」
「シミュレーション云々まで。大体の輪郭は分かったけど、具体的にどうするの」
「物語って出来事の連鎖でしょ。出来事=シニフィアンとすれば、物語ってシニフィアンの連鎖でしょ。そうなると絶対反復強迫がある。その反復に注目して、物語を支配する運動の法則を探るというのが一つの方法。もう一つは…。大部分の古典的物語は冒頭の秩序と、最終の秩序は異なっている。物語の秩序って、主な登場人物の共時的な関係、つまり登場人物に割充てられた形容詞的述部によって決定されている。そこに注目する。つまり物語全体の運動のベクトルを、各登場人物に割充てられた形容詞述部の分布から解明するという方法もある」
「そんな事できるの」
「卒論でやった。うまく行ったと思う」
「何でそんな事するんだい」平田が言った。
「暴言を吐くけど、従来の文芸批評ってその多くは感想文に過ぎないでしょ。そのうちの優れたものは膨大な資料に裏打ちされて説得力はあるけれど。でもそれって全部テキスト外的要素じゃない。テキスト外的要素を当該の作品に強引に反映して、あーだこーだと言ってるだけじゃない。批評って、そんなんでいいんか。しかし、テキスト外的要素とテキスト内的要素を混同するのもわからないではない。というのもディスクールは現実をつくるからね。現実と言っても、Réel(現実界)ではなくRéalité(現実性)だけどね」
「RéelとRéalitéの違いは何」
「文学作品はRéalitéに達する事は容易にできる。イマジネールに属するRéalitéって表象の世界だよね。表象ってドイツ語だとVorstellung。前に立つ、つまりお前立。扉に閉ざされて見る事が不可能な秘仏の代わりに扉の前に立つ秘仏の似姿を、お前立っていうの知ってるよね。本当にそうであるかどうかは確認不能の仮象、レプリカの可能性だってある。誤解しないで欲しいんだけど、ここで語ってる表象はフロイトのそれではないからね。あくまで文芸批評の分野での表象だからね。それに反して、多くの場合、文学作品がRéelに達する事、否、それにアクセスする事さえほとんど不可能に近いんだ。が、稀にマラルメの『イジチュール』とか、サルトルの『嘔吐』とか、Réelに迫った作品もある。ランボーの『イルミナション』もそう。それこそが文学なんだよ。今度は、文学を生産する側ではなく、受容する側からみると、表象がもしレプリカに過ぎないなら、表象について語る事はあまり意味ない。多くの批評はレフェラン、シニフィエ、シニフィカシオン、ソンス(意味)を混同している。戦略的にあえて混同しているものもあるから余計たちが悪い。ついでに言ってしまうと表象の世界って幻想だよね。今唯幻論が流行っているけど、あそこで扱ってる現実はRéalitéだよね。Réalité=表象=幻想なんて当たり前じゃん。ラカンの主人のディスクールのマテーム見てごらんよ。それに反して、Réelについて語る事はほとんど不可能。でもそこにこそ批評の本質はあるんだ。語りえないものについて語る事。それこそが批評なんだよ。言ってる意味分かる」
「分からない。でも、そんな批評やってる人現実にいるの」
「ブランショがそうだよ。紫苑物語ってあるでしょ。主人公宗頼は詩歌の世界を捨てて、野に下ったはいいが、放った矢で生きたウサギをどうしても射る事はできない。弓道場では百発百中で的は射るにも関わらずだ。あれってRéelにアクセスする事の不可能性の秀逸な比喩だと思うよ。とにかくテキスト内的要素だけで、つまり、そこに書かれている事だけで批評してみたくない。徹底的に読みこんで、アブダクション(仮説)を立ててそれを証明する。幾何の証明と同じだよ。その証明過程で概念装置が役立つんだ。文学だって人文科学なんだから、科学的なアプローチしたくない。それが批評のあるべき姿だと思うんだ。文学作品を一つのシニフィエに還元してそれを似非外部のレフェランに紐づけて事足れりとするなんて安易な態度だよ。『Stop Making Sens(30)』、それが構造主義的批評がとるべき倫理的態度なんだよ」
「また松本さんの暴走が始まった」馬場さんは、リンゴを頬張った。
「お前、『心にいばら(31)』持っているだろう」平田が言い、直後リンゴを頬張った。
唐突な言葉だった。そうかも知れない。平田もそれを持っている。が上手く糊塗している。私は自分が持っているいばらに自分自身が傷ついている。だから時々攻撃的になって血が滲んだ言葉を吐くのだ。私もリンゴを頬張った。何処か血の味がした。こういう所があるから教授は私を持て余しているのかも知れない。皆黙々と食べた。少し焦げくさかった。ほろ苦い味がした。
「ところで、今何時」
「もう少しで6時」
その日は午後一から、平田、馬場さん、私の三人で中断した勉強会の続きを馬場さんの部屋でしていた。疲れた訳だ。
「そろそろ飲み会にしない」私が提案した。

30分後、駅前の居酒屋で、ともちゃんも合流して定例の飲み会が始まった。ともちゃんに声をかけたのは私だった。馬場さんのアパートから駅へ向かう途中で、飲み会にともちゃんも来る旨を伝えた。
「あんたには千恵子さんという人がいるでしょ。もう浮気に走るの」馬場さんが半ば怒り、呆れていた。
「ほんと、お前マメだよな。感心するよ」平田は嘲るように言った。
さんざんな言われ方だった。が、単純にリンゴを渡したかっただけだ、久しぶりに会いたかっただけだ。他意はない。

「松本さん、何か嬉しそう。でも少しやせた。梅雨の頃の表情と全然違う。うまく行ってるんだ」ともちゃんが言った。
「ともちゃんも、こいつののろけ話につき合ってあげてよ。俺たちはもう耳タコ」平田が言った。
「ともちゃん、このリンゴどうぞ。少し重たいだろうけど」
「えっ、こんなにたくさんどうしたんですか」
「リンゴ狩りに行ってきたんだ」
「長野でですか」
「そう、千恵子の実家のリンゴ園で」
「相手の実家行ったなんて聞いてないぞ」平田が言い、馬場さんと目を見合わせた。
「行かされたんだ」
「まさか、お前父親になるの」
とも子さんは驚いていた。
「何でだよ」
「できちゃったんだろ。それで親に挨拶に行かされたんだろ」
「違うよ。勝手に話作るなよ。千恵子が実家に一人で帰るのが気が重かったみたいで、俺にもつき合わせたんだ。あくまでも単なるお友達という事で」
「でどうだったの」
「父親ははじめ何とかごまかせたけど。母親には一瞬で二人の関係ばれてしまった」
「何で」
「女の勘って奴じゃないかな。でも喜んで認めてくれたよ。問題は兄さんなんだ」
「何があったの」
「兄貴がクルマで千恵子のアパートへ送ってくれたまでは良かったんだけど、そこで決定的証拠を見られてしまった」
「決定的証拠って何」
とも子さんがいるので言うのを少し躊躇したが、続けた。
「使用済みのゴム」
平田、馬場さんは飲んでいたビールをふきだした。とも子さんは困ったような顔をしていた。目を伏せた。
「『妹に手を出すなんてふてえ奴だ』と言われて千恵子の兄貴には殴られそうになった」
「殴られればよかったんじゃない。いろいろな意味で松本さん少し反省したほうがいいよ」馬場さんが言った。平田もうなずいた。
「でこれからどうするの」平田が聞いた。
「わからないよ。俺まだ学生だから将来の事確約できない。逆に今そんな事言ったら無責任になる。『神のみぞ知る(32)』だよ。ただ千恵子を不幸にするような事だけはしたくない」
「その台詞、私も誰かに言われたい」馬場さんが夢見る少女になっていた。
「私も言われたい」とも子さんも夢見る少女になっていた。彼女が将来その台詞を言われる確率はかなり高そうだったが。
「そういうベタな台詞よく吐けるよな。恥ずかしくない」平田が言った。
「俺は真剣だよ。俺にとって千恵子のいない人生なんて意味ない」
「その台詞も誰かに言われたい」相変わらず馬場さんは夢見る少女だった。
「恥ずかしくって、俺そんな事とても言えない」平田があきれていた。
「松本さん、なんだか以前より頼もしく見える」ともちゃんが言った。
ともちゃんと頻繁にあっていた梅雨の頃は、全く先が見えなかった。自信を持つどころの騒ぎではなかった。私の千恵子への思いを、千恵子が受け入れてくれている、その事が今の私の自信の源泉だった。その自信が、臭い台詞を平気で言わせているのかも知れなかった。
「今のお前の様子からすると、これから俺の言う事は馬耳東風になるだろうけれど、ちょっと言っとく。危なっかしくて見ていられないんだよ。万が一だよ、万が一うまく行かなくなった時、今の状態のままだとお前相当ダメージ食らうぞ。自分の色恋沙汰も、多少なりとも他人事のように思った方がいいぞ。駄目になった時、立ちあがれなくなるぞ。これだけは忠告しとく」
平田の言う通りかもしれない。確かに、私は舞い上がっていた。私を空高く押し上げるこの上昇気流が突如凪いだら、私は失速し、バランスを失い、墜落し、地面と激突して致命傷を負うかも知れない。傷のせいで死んでしまうかも知れない。でも、行くとこまで行くしかないだろう。この恋の行先はまだ分からない。

とも子さんを送っていくのは久しぶりだった。二人ぼっちになると、ともちゃんは少し思いつめたような顔をしていた。どうしたのだろう。
「松本さん、少し時間ある。ちょっと私につき合って欲しいの」
「いいよ。でももうかなり遅いから、お母さん心配しない」
「大丈夫」
普段とは違う方向の大通りの方へ歩いて行った。いつか来たファミレスが見えた。
「安田の事」
「そう、もう別れた。でもその別れ方が酷かったんで、ちょっとトラウマになってる」
「どういう事」
「3ヶ月くらい前に呼び出された。行きたくはなかったんだけど。彼凄い剣幕だった。キリンのぬいぐるみ抱えて、私と松本さんが手をつないで歩っているの目撃したんだって。『俺というものがあるのに何でそんな事をするんだ』って怒られた。まるで私が彼の所有物みたいな言い方された」
修羅場だ。どう反応していいか分からなかった。仕方なくビールを飲んでごまかした。
「私頭に来ちゃって、もうあなたとは別れるって、はっきり宣言した。そうしたら、急に松本さんの悪口を言い始めた。『俺の女を横取りするなんてふてえ奴だ。俺には出世の道が開けているけど、あいつはクビ寸前だぞ。来年の試験も多分難しい。指導教授に嫌われてるからな。それに俺の方が数段イケメンだし、何であんな奴がいいんだ』って言うから、松本さんの方が格段に優しい。私の意志を尊重してくれる。私を大事にしてくれる。一緒にいて居心地がいい。将来誰かと一緒になるんなら、ああいう穏やかな性格の人がいい、と言ったら、彼完全に怒っちゃって、『お前あいつと寝たのか、この売女』って酷い事言って、テーブルをたたいて喫茶店を出て行った。周りの目にいたたまれなくなって、私もすぐ店を出た。帰り道、悔しくてずっと涙が止まらなかった」
修羅場だ。キリン事件のせいで、そんな事があったなんて予想だにしなかった。何て言ったらよいのだろう。しかも、トラブルの原因の一端を私が作っている。どうしよう。彼女の目に涙が光っている。ビールを一口飲んでから言った。
「大変だったんだね。しかも俺に関係ないとは言えないし。正直どう慰めたらいいかわからない。とにかく元気出しなよ。新しい恋をみつけて上書きしてしまえば、嫌な思い出はすぐ忘れるよ。ともちゃんなら相手はすぐ見つかるよ」月並みな台詞を吐くのが精一杯だった。
「ありがとう。でも私もう恋はしない。もうこりごり。ちょっと怖くなってしまって今は無理」
「何でもいいから夢中になる事見つけて、それに集中すれば、嫌な思い出は自然と消えていくよ。インテリアに興味あるって言ってたじゃない。これを機会に、インテリアの勉強始めてみたらどう」
「あっ、そうだった。いいヒントどうもありがとう。ちょっと考えてみる」
良かった。彼女の顔がぱっと明るくなった。やはり、ともちゃんには笑顔が似合う。しかし安田はこんなかわいい子に何て酷い事言うんだろう。呆れた奴だ。別れて正解だったと思う。
彼女の住む大豪邸に着いた時は深夜1時をとうに回っていた。犬が吠えていた。サーチ・ライトが玄関を照らした。玄関が開いて人影が見えたような気がした錯覚か。
「お母さんに何か言われない。大丈夫?」リンゴの入った重たい袋を渡しながら言った。
「怒られるだろうけれど大丈夫。もやもやした気持ちを吐き出して少しすっきりした。誰にも言えなかったの。相手してくれてどうもありがとう。インテリアの件、本気で考えてみる」
「とにかく少し元気になってくれてよかった。じゃ、お休みなさい」
「お休みなさい。千恵子さんと仲良くね。もう十分仲良さそうだけど」
「ありがとう。何かあったらいつでも相談にのるよ」
さて、もう電車はない。どうやって帰ろうか。歩いて帰るか。1時間はかからないだろう。

残すは執筆作業のみとなったが、いかんせんやる気がなかった。学会発表の原稿を水増しすればそれで済むだろうと甘く考えていた。何処か集中できるとこに詰める必要がある。2~3週間あれば何とかなるだろう。千恵子の部屋に籠る事も考えて、実際試してみたが、シャワーを浴びた後、バスタオルを巻いただけの姿で、目の前をうろうろされると、執筆どころではなくなる。すぐ押し倒してしまう。研究室に籠るのがベストだろう。短期集中でいこう。終わったら、長野に行けば良い。その方が逢瀬を楽しめる。そう決めた。

バンベニストで最も重要なのは、セミオティックとセマンティックの弁別だ。文を境界にして二つの領野は弁別される。セミオティックはクローズド・システムであるのに対し、セマンティックはオープン・システムだ。何故そのような領野を導入しなければならなかったのだろう。エントロピー化した記号を外部へ放出し、逆に外部から記号の材料を取り込む。そこがセマンティックという領野だ。その運動の動作主をディスクールと呼ぶのではないだろうかと推論した。勿論、熱力学の第二法則が頭の片隅には常にあったのだが。

もう少しで脱稿だという時、千恵子から電話があった。
「ネー、気をつけてよ。私危うく恥かくところだったんだから」
「えっ、どうしたの」
「月曜の朝、メイクをチェックしようと思って、病院のトイレで鏡をふとのぞいたら、首にキスマークがあったんで、びっくりしちゃった。あわててスカーフで隠した。でも同僚の何人かには確実に見られた。絶対変な噂してると思う。私、職場では品行方正で通ってるんだから、気をつけてよ」
「御免。気をつける」
「何かあったら責任取りなさいよ」
「わかった」
「実は…、今日元カレに偶然会ったんだ。もう一度やり直さないかと言われた」
俺を嫉妬させてどうする気なんだろう。
「今お付き合いしている人がいるから私の事は諦めてって言った。そしたら、そんなの嘘だと言って納得しない。彼は私が一番つらい時期に、私に寄り添っていてくれた。誰かみたいに私から逃げ出さなかった。彼は私に夢中だし、私もそんな彼が好き。もう親にもあいさつ済ませたし。と言ったら、顔真っ赤にして怒っちゃって、私をにらみつけて、テーブル叩いて喫茶店出て行った」
「修羅場だったんだ。大丈夫だった」
「私は平気よ。誰かさんがいつも私の味方でいてくれるから。ところで、この前来た時、執筆中だった原稿終わったの」
「もう少し」
「原稿書いているのかなと思ってのぞいたら、君、居眠りしていたよ。これはまだまだ時間かかるなって思ってた。予想外に早く終わるんだ。でも君、ほんと良く寝るよね。前世猫だったんじゃない」
「違うよ、サハラの砂。原稿早く終わるのは根詰めたからだよ。このところ4時間も寝てない。疲れた。それはそうと、クリスマス・プレゼント、何が良い」
「君って時々意味不明な事言うよね。寝ないで頑張る君の姿、ちょっと想像できない。呑気に寝落ちしている姿ばかり見てたせいかな。プレゼント。そうね。実家に行った時に持ってきてくれたワインおいしかった。あれ持ってきて」
その後取り留めのない会話が30分以上続いた。切りたくなかった。今度あった時電話代の分はおごらなければ。そうか、元カレに言い寄られたのか。千恵子はもてるからな。元カレには悪いけれど、「勝った」と思った。それより、思った事をあまりストレートに口に出さない千恵子が、私を好きだと言ってくれた事が酷く嬉しかった。その事が私を幸福な気持ちにした。有頂天にした。祝杯をあげよう。原稿は明日もう一度見直してから提出しよう。今夜は無理だ。

列車が長野に近づくにつれ、雪がちらつき始めた。まるで誰かが祝福してくれているかのようだった。これでクリスマスの舞台装置は完璧だ。小雪が舞い散る午後の長野駅で待ち合わせをし、レストランでビールとオムライスのランチをした後、今宵のディナーの買い物へと繰り出した。寒さが二人の距離をより縮めた。肉屋の店頭でチキンはどうしようかとひそひそ話している二人を見て、バイトの高校生らしき女の子が急に顔を赤らめた。何故だろう。そうか、話すとお互いの唇が触れてしまいそうなくらいの至近距離で話をしていたからか。無意識だった。
「ちょっと、離れなさいよ」
「離れると寒いよ」
「バカ。人が見ているでしょ」
「御免」
このやり取りを見ていたバイト君は下を向いて必死に笑いをこらえていた。この子にも後数年経てばこういう状況は訪れるだろう。バカップルか。ちょっと買い過ぎたかなと思えるくらいの大きな荷物だった。それを一つにまとめて背負おうとする私を見て、
「君、サンタクロースみたいだね」と千恵子が笑いながら言った。千恵子の部屋についた頃はもう夕方だった。
「実はこれから用事があるんだ。8時前には戻ってこれるから留守番していて」
「えっ、何処行くの。俺もついてくよ」
「駄目、着付け教室。同僚から誘われたんだ」
「でも、寂しいよ。何してたらいいの」
「君薹が立っているけど受験生でしょ。勉強でもしてたら」

そうだ、1月末には後期課程の試験が控えている。去年落ちた事がトラウマになっていた。受験準備はあまり進んでいなかった。気が重かった。やる気もなかった。が駄目だった場合でも、これ以上深追いするつもりは無かった。「もう止めなさい」というサインなのだ。後期課程の試験に苦労するようでは、たとえその先に進んでも一生専任講師になれないで終わるだろう事は明らかだ。そこまでして大学にしがみつこうとは思っていない。と言っても就活を始めたわけでもなかった。The Great Reset。自分の人生をリセットするきっかけが欲しかったのだ。落ちれば就活せざるを得なくなる。どっちに転ぼうと来春私の人生は大きく舵を切るだろう。来るべき嵐を前にして、私は今千恵子の元に避難している。そう、彼女を「嵐からの避難場所(33)」にしてしまったのだ。いずれにせよ、この穏やかな凪の世界から嵐が吹き荒れる外界へと飛び出していく覚悟がまだできていなかった。それが私の精神状態をひどく不安定なものにしていた。
「大丈夫?急に暗い表情になったから心配しちゃった。何かあったの。出来るだけ早く帰ってくるから、今夜は楽しくやりましょう」
自分が少しナーバスになっているのは感じていた。母親にすがる幼子のように、千恵子に抱き着いて、泣きじゃくりたい気分だった。それ程、その時は自分の気持ちをコントロールする事ができなかった。しばらくしてこの発作は収まった。千恵子には悪い事してしまった。せっかくのクリスマスなのに。
「御免少し考え事してた。もう大丈夫だから、着付け教室行ってきて。留守番してるよ」
無理に明るく言って送り出した。反省した。この不安定さは誰にも見せるべきではない。見せられた相手は困惑するばかりだ。相手が千恵子だったから甘えが出てしまったのかも知れない。千恵子に私の母親の役割を求めてはいけない事は重々承知していたつもりなのだが。いずれにしろ、これは自分自身で答えを出すしかない問題なのだ。
待っている間何かに集中しよう。そうだスープを作ろう。スープをじっくり煮込むのがこういう時気持ちを落ち着かせる一番の方法なのだ。精神安定剤の代わりになる。缶詰のコーンをミキサーで形がなくなるまでつぶす。それに牛乳を混ぜて裏ごしする。それを若干の塩、コショー、コンソメ顆粒で味を整えて、ひたすら弱火で煮込む。注意していないとすぐにふいてしまう。ゆっくりとかき回すと鍋からほのかに甘い香りが立ち上ってくる。それが不安定な気持ちを優しく包み込む。気分はだいぶ落ち着いてきた。

「ただいま。待った。御免ね。何作ってたの。いい匂いがする。コーンスープ」
千恵子を抱きしめキスした。唇の冷たさが、外が冷え込んでいるのを教えてくれた。
「バカ。放して。準備できないでしょ」
これからは一人ぼっちのクリスマスではなく、「二人だけのクリスマス(34)」の始まりだ。料理を盛った皿がテーブルから溢れた。乗りきらない。
「だから言ったでしょ。とても二人じゃ食べきれないって」
「大丈夫だよ。これだけあれば、明日もクリスマスできるよ」
「本当、能天気なんだから。心配だったんで急いで帰って来たけど、何か騙された気分。同僚にお茶誘われたんだ。ゆっくりお茶してくればよかった。でも、さっきは本当に変だったよ。何かあったの。どうしたの」
「なんでもない。寂しかっただけだよ。それより祝杯あげよう」
私は追い詰められていた。しかしものは考えようだ。目の前の事に一喜一憂するのはもう止めよう。全ての事はあらかじめ定められている。決定されたシナリオはもう変更不能なのだ。どんなに努力した所で、それを覆す事はできない。どうあがいたとしても、それをトレースする事しか出来ないのだ。しかも残念ながら、すでに決まっている未来を見通す事は出来ない。メタの視点はない。だから目の前の現象にいちいち右往左往するのだ。と、プラトンのイデアを勝手に曲解した。こう考えると少し気が楽になった。
電気を消して、キャンドルを灯し、乾杯をして、メリー・クリスマスのキスを交わした。キャンドルの炎に照らされ、暗闇から浮き上がった千恵子の微笑みは、鹿児島で私を射抜いた微笑み以上に輝いていた。ヒッチコックの「断崖」でミルクの中に豆電球を仕込んでミルクの白さを強調している場面がある。そのくらいキャンドルの炎に照らされた彼女の肌は陶磁器のように白さが際立っていた。そう私は出会った時以上に千恵子にのめり込んでいたのだ。彼女は「大きな存在(35)」だった。千恵子がそこにいるだけで、千恵子のそばにいるだけで狂喜するほど幸せだった。別に何をしたわけでもない。ささやかなディナーを食べ、シャンペン、ワインを飲み、たわいのない、かつエンドレスな話をする、時々見つめ合うという、他人から見れば普通のカップルの普通のクリスマスだったろう。が、これ以上幸せなクリスマスは私には二度と訪れないかも知れないと思わせる程幸せなクリスマスだった。
深夜、酔い覚ましに散歩に出かけた。もう雪はやんでいた。雪上に残した二人の轍がグラデーション状の暗闇の中に消えていく。来し方も見えない。行く先も見えない。何か嫌な胸騒ぎがした。
翌日のブランチに千恵子が作ったオムライスは、ほぼ完成の域に達していた。これなら店に出しても通用する。そのくらいのクオリティだった。夏に初めて食べた時のオムライスとは雲泥の差だった。彼女の自慢料理が一つ増えたのだ。
「うまくなったね。おいしい」
「当たり前でしょ。千恵子様だもん。また今度作るね」
この時の千恵子の微笑みは一生忘れないだろう。それ程印象的だった。脳裏に深く刻まれた。

                              (続く)

26 Bob Dylan, Tangled up in Blue(Bob Dylan), Blood on the Tracks
27 Fun × 4(作詞:松本隆、作曲:大滝詠一)の歌詞
28 Alex Coxの映画
29 Gerry Goffin, It's Not The Spotlight(Gerry Goffin, Barry Goldberg)の歌詞,    It Ain't Exactly Entertainment
30 Talking Heads, Stop Making Sense(アルバム・タイトル)
31 The Smith, The Boy with The Thorn in His Side(Morrissey), The Queen Is Dead
32 The Beach Boys, God Only Knows(Braian Willson), Pet Sounds
33 Bob Dylan, Shelter from The Storm(Bob Dylan), Blood on the Tracks
34 Eagles, Please Come Home for Christmas(Charles Brown / Gene Redd)
35 Bob Dylan, You're A Big Girl Now(Bob Dylan), Blood on the Tracks

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?