第三開『甘い』飴町ゆゆき

「じゃあ、二時間で戻るから」

 そう言ってマキさんは椅子に投げやってあったコートをひっつかむと、僕の返事も聞かずに、颯爽と部屋を出ていった。僕はその後ろ姿をベッドに横たわりながら、首だけ動かして見送った。ドアから外の風が吹き込む。寒い。僕は思わず布団の中へ首をすぼめてドアが閉まるのを待った。でも、風は依然として外から吹き込んでくる。見れば、どうも、マキさんは思いのほか大きな動作で出ていったらしく、ドアが外の風をはらんで大きく開かれたままになっていた。数秒待っても動きがないところを見ると、マキさんは振り向きもせず行ったらしい。このままではとても閉まる気配がなさそうだった。僕はやむなくベッドから起き上がり、風が吹き込み続ける玄関へ重い体を引きずっていった。できるだけ体を外に出さない様に手だけを伸ばすと、うしろに体重をかけてドアノブを引き、なんとかして風をせき止めた。少しは病人を気遣ってくれてもいいものを。こういうところでいいかげんなんだ、あの人は。

 僕のワンルームはすっかり冷え切ってしまっていた。僕はベッドに戻るまでの間に、マキさんがずかずかと上がり込んで蹴飛ばしていったスリッパを元の位置に戻し、マキさんが勝手に食器棚から取り出して使ったコップを流しへ置き、マキさんが僕に聞くだけ聞いて書きつけたまま机に忘れていった欲しいもののメモを眺め、字だけは綺麗なんだよなあという感想を心にしまい、そうしてやっと布団にもぐりこむと、最後にマキさんが断りなくつけていった部屋の電気をリモコンで消して、目を閉じた。思えばこの人はなにもかもいいかげんだ。何もいまに始まったことではなかった。食事に誘われてのこのこついていくとすぐ財布を忘れたといい後輩の僕が払う羽目になる。そうしてそれはこちらが言うまで返ってこない。大学の講義の時間割は平気で忘れるし、たまにちゃんと来たかと思えば机上のタンブラーに入っていたのは焼酎のお湯割りだった。「飲む?」ではない。だいたいなんで一年下の僕と同じ講義を受けているんだ。三年生にもなってテストを受けるのを忘れたなんてふざけてる。本当にちゃんと卒業できるのか、この人は。今日だって、僕は自分の体調不良を誰に連絡したわけでもないのに、昼前になって突然部屋までやってきたのだ。「講義いないから来たよ。何やってんの?」というが、何やってんの、はこっちのセリフだ。あなたはこれから別の講義が「なに、風邪? ああ、いいから寝てなって。あ、ジュースもらうね」勝手にひとんちの冷蔵庫を開けるんじゃありませんよ。ねえ、マキさ「わかったわかった、2号館の? 302? ああ概論ね。欲しいものある?」ポカリと、うどんと、なんだろ消化にいい……あ待ってそれ、その紙、レポート用紙じゃない? いま机に置いてあるの使いました? マキさん

「じゃあ、二時間で戻るから。ちゃんと寝てるんだよ」


 気が付くと、また部屋の電気がついていて、誰かひとの気配がした。首を動かすと、椅子に投げやられたコートと、無造作に商品が入れられたビニール袋と、コンロの前に立つ女性の姿が見えた。何かを煮込んでいるらしく、「んん、上出来だねえ」という独り言が聞こえてきて、これは、もう、マキさんだなとわかった。
 ごそごそと布団の中で身じろぎすると、マキさんが肩越しに振り返った。
「あ、起きた? もう、戻ってくるって言ったんだから鍵を閉めるんじゃあないよ」
 あ、ごめんなさい、と反射的に謝りかけたが、ちょっと待てよと思う。
「どうやって入ったんですか」
「ん? フフ、こんなこともあろうかと合鍵を作っておいたのさ」
「犯罪じゃないですか」
「超法規的措置と言いたまへよ君、ほらできたよ」

 そう言ってマキさんはまた勝手に取り出した湯呑みに何やら鍋で煮込んでいた液体を注ぐと、僕の前に持ってきた。むっとした湯気から、甘い香りにまざってほのかにお酒の匂いがただよう。嗅いだだけで、喉があたたかくなるようだった。
「たまご酒……ですか?」
「……のような何かだね。わからないからイメージで作ってみた。適当に。まあおいしいことは確かだね、甘いぞお」

 僕はようやく体を起こして、まず口をゆすぎたいなあとは思いながら、マキさんの手からそのなんだかよくわからない飲み物を受け取った。少しすすっただけで、マキさんの言葉通り、甘みがじわりと口のなかに広がった。そうして後を追うように、お酒の香りが喉へ抜けていった。これまだアルコールが抜けきってないんじゃないかと思いながら「おいしいです」とだけ言って、僕はもうひとすすりする。マキさんの酒は体に染み渡るように、よく僕の舌になじんだ。

「思うんですけど」

 半分ぐらい湯呑みの中身を飲んだころ、僕は口を切った。
「なに?」
 目の前では、マキさんも別の湯呑みでそのお酒を飲んでいる。こちらはお酒を追加したようで、早くも顔が少し赤くなっていた。

「僕はマキさんに甘すぎやしませんかね。ちょっといろいろ許し過ぎている気がする」
 そういうとマキさんは「いいじゃないか、甘え甲斐があるんだよ。甘々の関係でいこうよ。ほら、もっと飲みなよ」といって自分の湯呑みの中身を無理やり僕の湯呑みに移そうとしてきた。
「それ僕に甘みないじゃないですか」マキさんはかまわずニカと笑って「はは、それもそうだ」と言った。僕は少しお酒の匂いが濃くなった液体をすすりながら、ぼそりと付け加える。

「単位ぐらいとってくださいよ」
「君がいればなんとかなりそうだからね、アハハ。よーしじゃんじゃんいこう」

 この日のマキさんはそうやって、しばらく僕のベッドの前で飲んだくれているのだった。

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