(加筆修正・追加記事)エッセイ「クラシック演奏定点観測〜バブル期の日本クラシック演奏会」第16回 ジュゼッペ・シノーポリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団来日公演1988年
(加筆修正・追加記事)
エッセイ「クラシック演奏定点観測〜バブル期の日本クラシック演奏会」第16回
ジュゼッペ・シノーポリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 来日公演 1988年
⒈ジュゼッペ・シノーポリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 来日公演 1988年
公演スケジュール
1988年
9月
14日 東京
15日 宇都宮
16日 東京
17日 藤沢
18日 つくば
20日 鹿児島
21日 広島
22日 倉敷
24日 大阪
26日
大阪
フェスティバルホール
マーラー 交響曲第8番変ホ長調 千人の交響曲
第1ソプラノ ガブリエラ・ベニャチコヴァ
第2ソプラノ ジュリア・コンウェル
第3ソプラノ バーバラ・カーター
第1アルト 片桐仁美
第2アルト 永井和子
テノール ウィリアム・ペル
バリトン アンドレアス・シュミット
バス オスカー・ヒレブラント
合唱指揮 グイド・マリア・グイダ
合唱指導
グイド・マリア・グイダ
林達次
日下部吉彦
清原浩斗
コードリベット・コール
神戸中央合唱団
摂津混声合唱団
布施混声合唱団
関西大学混声合唱団 ひびき
近畿大学グリークラブ
神戸女学院大学音楽学部コーラス
同志社グリークラブ
淀川工業高校グリークラブ
大阪すみよし少年少女合唱団
28日 名古屋
30日 東京
10月
1日 千葉
2日 東京
3日 埼玉
この公演に、実は筆者はコーラスの一員として出演した。だから、コンサートを聴いたという体験談にはならない。しかし、もう2度とない体験ではあるので、きちんと記録しておこうと思い、このエッセイに混ぜることにした。
この時の、ジュゼッペ・シノーポリ指揮フィルハーモニア管弦楽団のマーラー・チクルスは、大げさではなく、日本におけるクラシック音楽史上の巨大なエポックだった。
欧米の有名オーケストラによるマーラーの交響曲全曲演奏は、このあと日本でも行われるようになっていくが、その中でも交響曲第8番だけは、規模の大きさのために来日公演で演奏するのは至難の技だ。国内のオーケストラでも、マーラーの8番の生演奏を聴く機会はそれまで滅多になかった。筆者も8番の生演奏に接したのは、この時が初めてだった。
実際に自分がステージに乗ってみると、この曲を演奏することがどれほど巨大な一事業であるかがわかる。オーケストラだけでなく、ソリストの人数も交響曲としては桁違いに多い。さらに複数の合唱グループが必要で、この時の公演でも、複数の合唱団体が別個に練習を続けて、最終的に一同に会するやり方で実現にこぎつけた。さらに、パイプオルガンも不可欠なのだが、この当時、日本国内にあるオーケストラ用のホールで、パイプオルガンが備え付けのホールはごく限られていた。
例えば大阪公演の場合、大阪フェスティバルホールにはパイプオルガンがないため、電子オルガンで代用された。クラシック専用ホールで、パイプオルガンのあるザ・シンフォニーホールでは、残念ながらマーラーの8番をやるにはステージの大きさが足りない。当時の大阪では、本物のパイプオルガンを使ってのこの曲の演奏は、事実上不可能だった。
ちなみに、大阪フェスティバルホールで、最初にマーラーの8番をやったのは朝比奈隆指揮の大阪フィルだった。この時も、電子オルガンで演奏した。朝比奈隆のマーラー演奏は、それほど多くはないが、一つ一つが彫りの深いロマンティックな名演だ。だが、世間でも非常に話題になった朝比奈&大阪フィルのマーラー8番は、正直、良い演奏ではない。指揮をした朝比奈自身も、この曲については「声部が多すぎて、よくわからない」とインタビューで正直に語っていた。
⒉ マーラーの8番に合唱で出演するということ
この演奏会に出演するための合唱の練習は、当時大学生だった筆者にとっても苦労の連続だった。何しろ曲自体が難しいので、本番までの練習回数は半端な数ではない。他の合唱団との合同練習も、いろんな会場で複数回行われた。コンサートの直前、フェスティバルホールでのリハーサルに至るまで、本当に大変だったのだ。
※当時の練習スケジュール表、予定がぎっしりと埋まっていて、会場も毎回のように変わる
さしもの巨大なフェスティバルホールでも、この交響曲に必要な人数(「千人の交響曲」のあだ名通り、本当に1000人必要かどうかは議論が分かれる)をステージに乗せるには、端から端まで最大限のスペースが使われた。それでもコーラスのメンバーの座る空間はなかった。だから、この長い交響曲が始まってから終わるまで、合唱団はずっと立ちっぱなしだった。何しろこの曲は、最初から最後まで、合唱はほぼずっと歌い続けなのだ。しかも、合唱団は演奏前、一番最初に出てきてステージ奥から順々に並ぶ。演奏が終わり、カーテンコールなどが延々と続いて、ステージから降りるのも合唱が一番最後なのだ。その間2時間以上、狭い空間にじっと立っていなければならなかった。よくぞ誰も倒れなかったものだ、と今から思えば冷や汗ものだったと思う。何しろ合唱団には、年配の人もいたし、児童合唱団もいたのだ。
※旧・大阪フェスティバルホール。舞台の間口が横に非常に長く、反響板を外せば奥行きも長い、当時の日本では最大級のステージサイズだった。
筆者がこのコーラスに参加したのは、高校時代の音楽の先生がこの公演の合唱指導の一員に加わっていたおかげだ。それまでにも、この音楽の先生に従って、ベートーヴェンの第9をオーストリアのウィーンまで出向いてハンガリーのオーケストラと一緒に公演に出たり、市民合唱団の演奏会に飛び入り参加したりしていた。特に年末恒例のベートーヴェン第9演奏会には、合唱のエキストラでよく参加した。何しろ日本の合唱団は男声が恒常的に不足している。おまけに年齢層が高い。そんなわけで、第9を歌える男声で、しかも10代の大学生となると、どこにいっても歓迎されたものだ。そんな流れで、関西の主要なオーケストラの第9演奏会にはかなり参加したし、ちょうどこの頃始まったサントリー主催の「1万人の第9」にも、助っ人扱いで参加できた。
それでも、フィルハーモニア管弦楽団というイギリスの有名オーケストラの後ろで歌うというのは、一生にそう何回もない貴重な機会だった。
シノーポリの指揮は、CD録音で聴いていた演奏のイメージとは大違いで、合唱にとってはとても指示がわかりやすいものだった。もじゃもじゃヒゲとメガネが特徴的な彼の顔の表情を見ているだけで、曲想の表現がわかるのだ。しかも、曲が曲だけに、指揮者は合唱だけでなく大編成のオケや多数のソリストに矢継ぎ早に指示を出していく。リハーサルの限られた時間の中で、限界を超えた大編成の細かい部分の修正を的確に決めていく。その手腕の見事さに、本当に耳のいい指揮者なのだと感じ入った。
その後の数十年間で、マーラーの交響曲第8番を実演で何度か聴いた。しかし、きちんとまとまっている演奏は残念ながら一つとしてなかった。大阪フィルを名指揮者の小林研一郎が指揮した演奏でも、途中でアンサンブルがばらけてしまって、最後に無理やりまとめた感じだった。
それを考えると、この時のシノーポリはいくら手兵オケとはいえ、コーラスは「寄せ集め」で、会場も毎回違うホールという悪条件の中、ソリストとコーラスを見事にまとめた手腕は、本当にすごい。
シノーポリが早逝してしまったのは、実に残念だ。
※公演パンフレットの、シノーポリの挨拶文。日本のファンに向けて、俳句を引用(しかも日本語で!)しているあたりに、博識ぶりがうかがえる。
※参考CD
《マーラー:交響曲全集(12CD)シノーポリ&フィルハーモニア管、ほか
ドイツグラモフォンによって制作された15枚組の交響曲全集から『嘆きの歌』を除き、CD1枚あたりの収録時間を長くして、さらなるお買得価格とした12枚組の交響曲全集がエロクエンスから登場。
2001年4月20日、ベルリンで『アイーダ』を指揮中に突然の心臓発作で急逝したジュゼッペ・シノーポリによるこの交響曲全集、1985年から94年にかけて、当時の手兵フィルハーモニア管弦楽団を指揮した第1~第9番&第10番アダージョ、6つの管弦楽付き初期歌曲、さすらう若人の歌、亡き子を偲ぶ歌、そして1996年にシュターツカペレ・ドレスデンを指揮した『大地の歌』まで、マーラー好きなら一度は聴いておきたい内容充実した演奏が揃っています。
先鋭な解釈とダイナミズム、徹底したうたいこみによる実に見事なマーラー演奏の数々。録音も優秀で、ヴァイオリン両翼型の立体感あふれる音響がマーラー・サウンドをことごとく解像して文句なしにスリリングな仕上がりです。(HMV)
交響曲第8番変ホ長調『千人の交響曲』(録音時期:1990年12月)
シェリル・ステューダー(ソプラノ)
アンジェラ・マリア・ブラーシ(ソプラノ)
スミ・ジョー(ソプラノ)
ヴァルトラウト・マイヤー(メゾ・ソプラノ)
永井和子(メゾ・ソプラノ)
キース・ルイス(テノール)
トーマス・アレン(バリトン)
ハンス・ゾーティン(バス)
サウスエンド少年合唱団
フィルハーモニア管弦楽団&合唱団》
土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/