自分も、周りも、日々新しいイメージを発見していく。ぶれても変わってもいい。

「訂正する力」を読んでみた。

本書では、現状の日本の文化として「変化=訂正を嫌う」スタイルが一般的であることをあげて
日本にこそ哲学の力をもって訂正を良しとし、「リセットする」ことと「ぶれない」ことの間でバランスをとっていく事が大事、としている。

過去の経験を生かしながらアップデートしていく・一貫性を持ちながら変わっていく事や
自分に対しても周りに対しても、「じつは・・・だった」という発見をしていくことを推奨している本。

変化=訂正を嫌う、例えば間違いを認めない・一度決めた計画は変更しない…

身近な場面だと、例えば仕事や家庭などでのコミュニケーションで意地でも自分の意見を通そうとする・自らのミスや間違いを認めない、などがあげられる気がする。

コロナ禍が終わった後でも、入店にはマスク必須!の看板を外せない飲食店がいくつかあった気がするけど、その辺もそうだよな〜。😷🍜

読んでいく中で、いくつか面白いなと感じたポイントがあるので挙げてみる。

対話は終わらない

ミハイル・バフチンというロシアの文学理論家がいます。『ドストエフスキーの詩学』という有名な本を書いているのですが、そこで対話が重要だと述べています。

ただ、それはふつうの対話ではありません。バフチンによる対話の定義がどういうものかというと、「いつでも相手の言葉に対して反論できる状況がある」ということです。バフチンの表現で言うと「最終的な言葉がない」。

 つまり、だれかが「これが最後ですね。はい、結論」と言ったときに、必ず別のだれかが「いやいやいや」と言う。そしてまた話が始まる。そのようにしてどこまでも続いていくのが対話の本質であって、別の言いかたをすると、ずっと発言の訂正が続いていく。それが他者がいるということであり、対話ということなんだとバフチンは主張しているわけです。

これはとても重要な指摘だと思います。よくひとは、対話が必要だ、話しあってくださいと言います。でもそれはたいてい、なんらかの合意や結論に達するための手続きにすぎません。バフチンは、そういうものは対話ではないと言っている。

東 浩紀. 訂正する力 (朝日新書) (p.56)

これには結構おどろいた。
自分が思っている対話とは、まさに「お互いの意見を出し合って、最善策や良い落とし所と思える結論を出しましょう」だったから。

そもそもがこれって、「本質的に正解など存在しない」前提に基づいてるから「結論なんてない」のかなぁと思った。

あるいは、対話の目的自体が結論や落とし所を見つけることではないから?

ずっと反論して訂正し続けることで、視野を広げることを目的としているのかなあ🤔
(この形式での対話、やってみたいw)

では対話で起こっていることはなにかというと、むしろ一緒に共通の語彙をつくっていく作業に近い。
言葉を交わすというゲームを遊びながら、同時に言葉を使うルールを一緒につくっていくような行為なわけです。

言葉の意味は事前に確定していると思うかもしれません。でも意外とそうでもないのです。たとえ意味が確定していてもニュアンスが異なることがある。

そのとき、自分はこういう言葉を使った、そうしたら向こうは予想とは異なる反応を返してきた、このままだと対話が成立しないから言葉を変える。そうすると話がさきに進んでゲームが成立する。そういうことを繰り返していくわけです。その調整は終わることがない。それがバフチンが言っていることです。

ぼくは音楽は詳しくないのですが、それはジャズなどのセッションに似ているのではないかと思います。他人の演奏をリアルタイムで感じ取り、それに合わせて自分の演奏を調整し変化させていく。

東 浩紀. 訂正する力 (朝日新書) (p.57)

これはめちゃくちゃ納得!
言葉の意味って確定してるようでそうでない。話し手・受け取り手によって解釈が変わるから。

相手に自分の意図が伝わるよう、言葉や表現を変えたりして伝えて調整しつづける。

セッションで相手の出方を見ながら音程やら音量やらニュアンスを変化させたり、がまさにしっくりくるな〜。🎸🥁

クリプキの「クワス算」

ふたりのひとが一緒に足し算をやっているとします。1+1は2だね、2+2は4だね、とひとつひとつ答えを確認して話を進めている。
そして足し算が68+57に到達したとします。答えはむろん125です。Aさんは125と答えます。ところがBさんは5だと言う。

当然Aさんは「なんで5なんだよ」と言うでしょう。それに対してBさんがつぎのように答えたとします。
いやいや、5でいいんだよ。というのも、じつはぼくたちがずっとやってきたのは、足し算(プラス算)ではなく『クワス算』という特殊な演算だったんだ。
それは足す数の片方が56になるまでは足し算と同じ答えを出すんだけど、両方が57以上になると答えが全部5になるんだ。いままでずっと足し算をやってきたと思ってきた、きみがかんちがいをしているんだよ」と。

東 浩紀. 訂正する力 (朝日新書) (p.58)

ぼくたちの社会は、どんなに厳密にルールを定めても、必ずそのルールを変なふうに解釈して変なことをやる人間が出てくる、そういう性質をもっています。
社会を存続させようとするならば、そういう変人が現れてきたときに、なんらかのかたちでそれに対処しながらつぎに進むしかない。だから訂正する力が必要になります。

裏返すと、これはルールにはつねに穴があるということでもあります。「ルールを守らないひとがいて困る」という話ではありません。じつは人間は、ルールを守っていても、あるいは守っているふりをしても、なんでも自由にできてしまうのです。ルールはいくらでも多様に解釈可能だからです。

東 浩紀. 訂正する力 (朝日新書) (p.60)

ルールも、言葉も、いくらでも多様に解釈可能。

自分が小さかった時や姉の子と遊んでる時、こういうのあったなーって思う。
(突然「はい〜〜XXXやから俺の勝ち〜〜w」みたいな謎の新ルール追加されて勝ち逃げされるやつ🤣)

新しい解釈によって、新しいゲーム性が加わる、みたいな事もあるもんね。

あと、「ルールだから守って」みたいな「正しい・間違ってる」論調ではそんな相手には伝わらない。
いかに相手の合理性上動いてもらえるようにするか?むしろルール側を柔軟に変化させるか?

余剰な情報で、自分を交換不可能な存在だと思ってもらう

大事なのは「余剰の情報」です。友人や仕事仲間との関係において、どこまで「余剰の情報」をつくれるのかが鍵となります。

与えられた仕事をこなす、期待された役割を果たすというだけでは、ひとはあなたを固有な存在だと思ってくれません。固有名になるためには、そういう期待の外で、相手に交換不可能な存在だと思ってもらわねばならない。

東 浩紀. 訂正する力 (朝日新書) (p.103)

ぼくはつねに、自分のイメージを訂正されたいし、他人のイメージも訂正したいと感じています。
対話を終えて、相手が「東さんはじつはこういうひとだったのか」と思ってくれて、ぼくのほうも「このひとはじつはこういうひとだったのか」と思う。そういうものが生産的な対話だと考えています。

東 浩紀. 訂正する力 (朝日新書) (p.104)

すごくわかる〜!!
日々変化している自分を新しく再発見してもらいたいし、周りの人たちについてもどんどん新しい側面を再発見していきたい。意外な一面が知れるとわくわくするし、より仲良くなれる。

私は日頃、仕事先のSlackのtimes(日報的な個人別のチャンネル)をXみたいに使っているのだけど、無意識に「交換不可能な存在」と認知してもらいたくて余剰な情報を垂れ流してたのかな〜

(仕事の事も書くけど、他に気に入ったお笑いの動画とか漫画とか、うちのカメ🐢が甘えてきてかわいすぎる、マクドの新作美味しいやん、とかも書く)

自分で自分に「メスゴリラエンジニアPdM」「うちぬきゴリラお姉さん」ってキャッチコピーつけてるのも、それかも〜?w 💻🍺🦍🎀

人はわかりあえないからこそ、何度でも理解を訂正し続ける

相手を固有名で見るというのは、相手を交換可能な存在だと考えないということです。自分の予想から外れるところがあっても、すぐ失望して離れるのではなく、「じつは……だった」の論理によって、むしろ相手のイメージを訂正して理解を深めていく。

東 浩紀. 訂正する力 (朝日新書) (p.111)

ぼくは、人間と人間は最終的にわかりあえないものだと思っています。親は子を理解できないし、子も親を理解できないし、夫婦もわかりあえないし、友人もわかりあえない。人間は結局のところだれのことも理解できず、だれにも理解されずに孤独に死ぬしかない。できるのは「理解の訂正」だけ。「じつはこういうひとだったのか」という気づきを連鎖させることだけ。それがぼくの世界観です。

大事なのは、ひとが理解しあう空間をつくることではなく、むしろ「おまえはおれを理解していない」と永遠に言いあう空間をつくることなのです。

東 浩紀. 訂正する力 (朝日新書) (p.117)

”「おまえはおれを理解していない」と永遠に言いあう空間をつくる”
このパンチラインかっこいいな〜〜って思った😍

他者という独立した存在である以上、他者を本質的に理解することは不可能。
理解できないからこそ、「これまでの相手のイメージと比べてネガティブなギャップを感じた」時にどう向き合うかが大事だよな〜。

もちろん集団や個人に明らかに害をなすような人の場合は接点を減らす工夫をした方がいいけど、そうじゃない場合はすぐシャットアウトしてしまわず、理解を深めるための出来事として解釈して向き合う。✨🤝

「フィクションをつくる」「忘れる」ことの大事さ

現代では記憶することは絶対の正義だと考えられています。そして新しい情報技術がどんどん記憶を詳細で完璧なものにしていっている。

けれども本当にそれが社会の安定や人々の幸せにつながるのか。

ぼくはここでも、ふたたび訂正する力の視点が有益だと考えます。平和をつくることは、「あの争いはじつは……だった」という一種のフィクションをつくることです。過去を記憶しつつ、過去を変えることです。まさに訂正です。
それは幻想かもしれない。けれども、いかなる幻想もなく、戦争の個々の出来事を検証し続けるならば、絶対に許せないことばかりに決まっています。それで平和がつくれなくなるのが、本当に正義なのか。あらためて考えてほしいと思います。

東 浩紀. 訂正する力 (朝日新書) (p.136)

難しい問題だけど、すごい大事なポイントだよなと思う。
怒りや憎しみの記憶は、それを持ち続ける本人すら苦しめてしまう。
ずっとその感情を持ち続けていたら、関係性を良くすることが難しくなってしまう。

たとえ「許す」ことや「完全に忘れる」ことはできなくても、「忘れたふり」をする。

国同士もそうだし、社会においてもそうだし、人間関係においてもそういう側面があると思う。

過去を訂正して、現在進行形の今、お互いの新しい良いところを発見し合ってみんなでよりよい未来をつくっていきたい。🧚

所感

総じて、あらゆることに通じる話だよな〜と感じた。

まちがっても、ぶれても、変わってもいい。
いくらでも訂正してより良くなっていける。

やわらかい心で、自分に・周りの人に・社会にも温かい目を向けて発見しつづけて面白がっていきたいな〜と思った一冊でした。😊✨🦍💃

いつも読んでくれてありがとうございます、励みになります(*^ω^*)