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小山ゆう『あずみ』:優しき殺戮マシーンの葛藤

某アプリで期間限定の公開があり、貪るように『あずみ』を読んだ。小山ゆうは天才だと思う。ただ、少し未消化な部分が残るような終わり方だった。ツラツラと書きながら考えてみたい。

あらすじ

異国の血が入った美しい娘、あずみ。彼女はごく幼いころから、同世代の9人の子どもと一緒に,人里離れた場所で殺人術の英才教育を受けていた。

時代は徳川幕府の黎明期。あずみは徳川家への反乱分子を討ち、戦乱を未然に防ぐ「枝打ち」を行うための刺客として育てられたのだ。

満を持して使命を果たす時がやってきた。師である小幡月斎は二人一組を作るように命じる。このペアで何をするのだろうと純粋な目で師を見る子どもたちに、月斎は告げる。

「二人で斬りあえ。」

こうして、異常な性能を誇る殺人マシーンが5名完成し、物語が始まるのである。

バイオレンスアクションとしての見事さ

本作の優れたところは、何と言っても殺陣の表現力だろう。小山ゆうの得意分野だ。あずみが常軌を逸したスピードで立ち回り、次々と相手を切り伏せていく。この光景は、血しぶきの舞うグロテスクなものでもあるが、一種の爽快感に満ちている。実際のところ、美人で人間的魅力もある主人公が無双するだけでこの作品は成り立ってしまう。

横たわる重たいテーマ

『あずみ』は主人公のキャラクター性と殺陣の爽快感だけで十分に楽しむことのできる、娯楽性の高い作品と言っていいだろう。しかし、一貫して重たいテーマが横たわっていることも指摘できる。

それは、洗脳的教育を受けたあずみが少しずつ自我を確立し、殺人マシーンとしての自分の在り方に疑問を持っていくというテーマである。

あずみと共に育てられた仲間たちも、あずみを育てた月斎も、次々に命を落としていく。一人になったあずみは、その後、月斎の上司にあたる南光坊天海の下につき、「枝打ち」を継続していく。

しかし、枝打ちの対象となるのは、悪人ばかりではない。徳川幕府に反感を持ち、戦乱を巻き起こしうるような大物が多いのだ。そのような人物の多くは、大望を抱き、人望があり、愛すべき家族を持っていたりする。

使命として相手に近づくたび、ターゲットの人柄や人望がしっかりと描かれ、またその人物を慕う人々も描写される。そしてあずみは「この人を斬らないといけないのか」と葛藤する。この描写が何度も何度も、相手を変えて執拗に繰り返されるのである。

南光坊天海は折に触れてあずみを労い、告げる。

「この枝打ちによって戦乱が起きることが回避された。それは枝打ち自体によって死んだ人の数とは比較にならないぐらい、多くの人の命を救ったのだよ」

あずみもまた、天海が月斎の上司であったことも考え、「爺、これでいいんだよな」と自分を納得させようとする。

それでも、葛藤は膨れ上がる一方だ。この葛藤を何度も繰り返したのち、あずみは一度天海のもとを離れ、自分のルーツを探る旅に出るのである。

葛藤への答えは

終盤、あずみは天海の下を一時離れ、自分のルーツと思われる安曇野に向かう。この旅路であずみは何をつかみ、生き方をどのように選ぶのか。固唾をのんで見守っていた。

安曇野に向かう道中、あずみは誰も巻き込まずに済むよう一人旅を選ぶ。にも拘わらず、あずみを追う刺客たちは、少し関わりを持っただけの一般人たちを次々と人質に取り、利用する。命を落としてしまう人質も多く、執拗な鬱展開に、アプリのコメント欄もいらだっていた。

この描写は、あずみが身分を隠し、どこかの共同体に入り込んで幸せに生きていくことが、もはや不可能であることを突きつけている。

安曇野にたどりつき、あずみは道なき山の奥に隠れ里を見つける。そこでは、異人と地元民がともに自給自足の平和な暮らしを送っていた。あずみは自分のルーツがそこにあったことを確信する。そこの住人に受け入れられたあずみは、しばらくの滞在も提案されるが、後ろ髪をひかれながら断る。また巻き込むわけにはいかないからだ。

里を離れたあずみは、すっきりとした表情で「帰ろう」とつぶやく。ページの端に第一部完と示され、完結する。

うーん、これって48巻かけて紡いだ物語に、決着がついていないのではないだろうか。あずみの帰る場所は、この描写では天海の下しかありえない。そして、己の役割に対してどういう結論を出したかの描写もない以上、あずみは「枝打ち」を続けていくと解釈する以外にないのである。

きっと作者もそのあたり消化不良で、だから「第1部完」としているのだろう。

勝手に期待していた結論

てっきり、あずみは「自分で善悪の判断をさせてもらう」と宣言するか、「自分で善悪の判断をできるよう、しばらく旅して見分を広げるよ」といった結論を出すと思っていた。

洗脳から抜けて自我を確立したのであれば、自分自身で判断する/できるようになろうとするという結論が最も自然なのではないか。

それこそ、チェンソーマンのデンジがそうだった。教養がなく、マキマに善悪の判断をあずけて痛い目をみたデンジ。最終回、彼は「趣味で悪魔を殺していること」「現在は高校生であること」が提示される。

「趣味で」というのは、誰かの命令ではなく、デンジ自身の意思でやっているということだ。

そして、学校に行ったことがなかったデンジが高校生になっているというのは、教養を身に着け、自分で善悪を判断できるようになろうとしているということの表れだろう。

あずみの方でも同じような選択があれば、個人的にはとてもスッキリできたのだが。

とはいえ、上記のような選択肢が作者に浮かばなかったとも思えない。それでも、作者が考えた末に第一部完としたことの意図を、これから考えてみたい。

AZUMIという続編があるのだが、そちらは幕末が舞台になっており、本作の主人公とは別人らしい。幕末を舞台に、このテーマについて決着をつけなおしたのだろうか。機会があれば、確認してみたい。

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