『タコピーの原罪』最終回を、『千と千尋の神隠し』から解釈する
『タコピーの原罪』最終回、自分には少しわかりづらかった。現在、脳内がゴチャゴチャしているので、書きながら鎮めていきたい。
タコピーは何を成し遂げたのか
ハッピー力をつぎ込んで行われた最後のタイムリープ。これによってもたらされたのは、「しずかとまりなが会話によって心をひらき、友人になる」ということだった。
自分の最終話予想は、「タイムリープ後の世界では、タコピーが意志をもつハッピーリボンと化していて、しずかとまりなを結び付ける」というものだった。単行本の表紙を上下巻あわせてみると、しずかとまりながハッピーリボンで結ばれているようにしか見えなかったし、まりなもタコピーが救うべき対象なのは明らかだったからだ。
結果として大枠では合っていたが、具体的な手段としてはハズレだった。 表紙は「二人が友人となり、相互に救いあうこと」を暗示する描写、ということだったようだ。
しかし、それにしても少々はっきりしないところがある。
なぜ最終話の世界ではしずかとまりなが仲良くなれたのか
具体的にタコピーはどのような介入を行ったのか
ということだ。
考えられる説明としては、「ハッピー力を捧げて行うタイムリープの場合、ハッピー力によって世界のルールを少しだけ書き換えられる」とか、「少しだけ出来事をコントロールできる」とかになる。自分の性格上、そのあたりがハッキリわかるように描かれている方が納得感があったのだが。
知に勝る解決と情に勝る解決
同様に「もう少しハッキリ描いてくれ」という感想を抱いたのが、『千と千尋の神隠し』だった。千尋は、豚の中に両親がいないことがなぜわかったのか?それがわからず、1回目の鑑賞では釈然としない気持ちを抱えてしまった。
ただ、このシーンについては、時間が経つにつれ、不思議とラストを受け入れられるようになっていった。タコピーもそうなっていくのだろうか?
千尋の件について、面白い解説動画を見たことがある。
以下、論じたいポイントに沿って要約する。
千と千尋のラストだけでなく、「自分の最愛の人の姿形が変わってしまったとしても、自分はその人を見つけ出せるのだろうか?」というテーマは古今東西の物語で扱われている。
物語によって、そのテーマへの回答は異なるのだが、大きく2つに分類できるのだという。すなわち、「知に勝る解決」と「情に勝る解決」である。
「知に勝る解決」は、論理的な解決のことだ。例えば、二人の間でこっそり合言葉やサインなどを決めておけばいい。
「情に勝る解決」は、感情的な解決のことだ。例えば、「愛し合っている二人なんだからお互いのことがわからないわけないじゃん」というものだ。
「知に勝る解決」は、読者を納得させやすい一方で、物語が謎解きゲームと化してしまうデメリットがある。千尋が豚の中に両親がいないとわかった理由が、「事前に両親に目印をつけていた」だったら興ざめだ。
一方で「情に勝る解決」は、感動的な結末になりやすい一方で、読者の納得が得られにくいというデメリットがあるのだ。「両親への愛でわかったのだ!」では納得感が不足する。
では、千と千尋の神隠しにおいて、なぜボンヤリとでもラストに納得できたのだろうか。実は、そのシーンに向けて、メッセージが周到に描写されているのだ。メッセージは大きく、以下の2点に集約できるだろう。
①欲に目がくらんでいると、大事なものを見失ってしまう
②自分が何者なのかをわかっていれば、すべきことがわかるし、他人に支配されたりしない
①については、湯婆婆が好例だ。金に目がくらんでいるため、偽物の金塊にだまされるし、「坊」を溺愛しているのに、ネズミに変えられていることに気づけなかった。どう見ても、本当に大事なものを見失っている。
②についてはハクを通じて描写されている。自分が何者であるかを取り戻すまで(自分の名前を思い出すまで)は、湯婆婆の支配に抗うことが出来なかった。だが名前を思い出し、湯婆婆と対峙できるようになった。
千尋は物語を通じて急速に成長していた。両親から自立し、欲に目をくらませることもなく、ハクを救うために勇気ある行動をとり続けた。自分の名前も、ハクに教えてもらえた。
人間的に成長し、自分の名を取り戻した千尋は、「本当に大事なものを見失うことが無い」ところまで成長していた。だから、千尋は大量の豚のなかに両親がいないことがわかったのだ。
このように、『千と千尋の神隠し』では、「知に勝る解決」を選んでパズル的になってしまうこともなく、「情に勝る解決」を選んで納得感を損なうこともなく、ラストシーンを着地させてのけたのだという。
タコピーの解決を見返すと
千と千尋の神隠しの話を踏まえ、タコピーの着地について考えてみよう。
タコピーが仲良しリボンで二人を結び付けて、という結末は「知に勝る解決」になる。これなら、しずかとまりなが友人になれた理由に納得感は与えられるだろう。
一方で、これではタイムリープの反復の結果、解決策を発見したというだけのラストになってしまう。パズルを解いたような快感があるかもしれないが、作品としてのメッセージが反映されているとはいいづらいだろう。
では、作品としてのメッセージはどのようなものだったか?
個人的には、本作をドラえもんへのカウンターとして読んできた。つまり
①「悩む子どもに対して、道具を与えて解決させる」という構図への批判
②「子ども像」自体が令和では随分変わっている。しずかたちのような子どもには、道具での解決なんてなおさら的外れだという批判
の2つがあるのではないかと考えながら読んできたのだ。
そしてこれは、著者自身が「陰湿なドラえもんをやりたかった」と語ったことで、ある程度裏付けられてもいる。
この観点から考えると、本作はタコピーが「道具を与えれば相手をハッピーにできる」という段階から、成長を遂げる物語であると読める。
「道具を与えれば相手をハッピーにできる」と思い込んでいる段階では、やればやるほど目を覆いたくなるような結果が返ってきた。
だが、タコピーは自らの失敗経験と、直樹との対話によって成長する。
「相手を知ろうとすること、そのためにしっかりと話すことで、真の意味でのハッピーをもたらすことができる」ということに気づくことができたのだ。
「こういう方法で救ったんですよ」という方法論を描写すると、話がパズル的で陳腐なものになってしまう。作者はそれを嫌ったのであろう。
だから、千と千尋の神隠しと同様、「タコピーは成長を遂げたので、二人を救うことができた」ということを強調したのではないだろうか。
こんな風にまとめると、少しは最終回に納得できる気がしたのだった。