雑記:作者の気持ちを答えなさい?

「国語の問題で”作者の気持ちを考えなさい”なんて問題に取り組むのは意味がないでしょ。やっぱり文系はクソ。理系万歳」

「私はこの作品の作者ですが、書いているときは〆切のことを考えていました。」

こんな話題がたびたび盛り上がっているのを見かける。こういうスタンスの人はなかなか多いようだ。かくいう自分も理系で、国語は苦手な時期も長かった。だから、上記のような見方をしていた時期もあったと思う。

この批判の論点は以下のように集約できるだろう。

①国語のテストでは作者の気持ちが問われる
②作者の気持ちなんて、実際には知りえない
③だから国語はくだらない

だが、今になって考えると、上記のスタンスには色々と問題がありそうだ。これには3つの反論が思いつく。2つはありふれたものだけど、1つは少し独特な視点かもしれない。まとめてみよう。

1.そんな問題はまず無い

いきなり全てを終わらせる回答がこれだ。あるとすれば物語の読解で「この時の登場人物の気持ちについて説明せよ」というような問題ではないだろうか。

誰かがおぼろげな記憶をもとに「作者の気持ちを聞かれた」と発言し、国語が嫌いな人が同調し、いつしか定番の国語批判ネタになったというところではないだろうか。

もちろん、「そんな問題など存在しない」と証明する事はとても難しいが、「作問者の立場として、そのような設問は基本的に出さない」というコメントは検索すれば色々と出てくる。

2.書かれていることをもとに妥当な推測をする能力を問うのは必要なこと

「作者の気持ち」を問うこと自体がまず無いとして、物語の一部を読んで「この時の登場人物の気持ちを答えよ」という設問は実在するだろう。そのような設問は、やはり「実際のところは理解しえないもの」なのだろうか。

それもまた明確に違うはずだ。上記の引用でも書かれているように、わざわざ問われるような場面では、登場人物の気持ちが本文の情報から類推できるようになっているからだ。

例えば「強い好意を抱いている異性から嫌いだと言われ、土砂降りの中で下を見つめながら立ち止まっている」というようなシチュエーションだった場合はどうだろう。これでも、登場人物の気持ちは「実際のところは理解しえないもの」でしかないのだろうか。

もちろん。究極的には人物の気持ちを根底から理解することは不可能だ。細かいことを言えば、本人だって自分の感情をうまく説明できないケースだってある。

しかし「このシチュエーションであればこのような気持ちだと読み取るのが、一般的に妥当だよね」というラインは明らかに存在している。「登場人物の気持ちを答えよ」という問いは、文中の手がかりから妥当性の高い解釈にたどり着けるか否かを問うているのだろう。その意味で「答えの存在しない問題」という批判は的外れだ。

「このような問題に回答できるような能力自体が不要だ」という反論も一応想定できる。しかし、様々な事実を総合して作品の登場人物の心情を想像する能力というのは、マンガ・映画・小説などの物語を楽しむうえで必須の能力だろう。

加えて、このような能力は、日常的に接する人々の心情を理解するうえでも重要だろう。この問題に正答できる能力を義務教育の中で育むことは、けっこう強く正当化できるのではないだろうか。

3.テストでの問われ方で教科の意義を判断すること自体がおかしい

ここが個人的に考えてみたいポイントになる。他の論点は正直なところ、検索すれば同じものや上位互換がたくさんありそうだ。

今一度、「作者の気持ち」批判者の論点を整理してみよう。

①国語のテストでは作者の気持ちが問われる
②作者の気持ちなんて、実際には知りえない
③だから国語はくだらない

ここまでの指摘は、①や②自体への反論だった。加えて、この記事では①や②が事実だとして、それは③を導かないのではないか、ということを指摘したいのだ。

というのも、ペーパーテストというのは「限られた時間で子どもたちの到達度を測るうえでコスパのいい手段」に過ぎないと考えているからだ。ペーパーテストは教科そのものではないはずだ。だから、ペーパーテストで〇〇を問われるから、△△という教科はくだらない」という論の立て方自体、的を外していると思うのである。

例えば、自分は社会がメチャクチャに苦手な子どもだった。というのも、自分には学校で学ぶことの全てがテスト対策のように見えていたためである。だから新しい用語が板書されるたび「暗記ノルマが山積みされていく」と感じ、脳内は「やめてくれ。これ以上は勘弁してくれ」という悲鳴に満たされていた。

だから、地理だろうが歴史だろうが、新たな内容に入ることが苦痛でしかなかった。そんなこともあって内容に全く関心が持てなかったのである。

今となっては地理・歴史・公民などは知りたいことだらけである。特に歴史を知ることは抜群に楽しい。人類の、あるいは日本の歴史を大きな枠で知ることは、極上の物語を読むことにも似ている。ある場面でおこった出来事や誰かの勇敢な決断が、今自分の生きている社会にも影響を残しているのもたまらない。そうやってストーリーとして触れているうちに、重要なことが頭に残っていく。

社会科を学ぶことは、本来上記のようなものなはずだ。用語をひたすら暗記していく作業はペーパーテスト対策でしかない。当時の自分が、授業をテストの対策程度にしか受け止められていなかったから、教科の面白味に気づけなかったのだろう。だからその教科のペーパーテストが苦手だったという理由で、社会科を学ぶことの意義を否定することは的外れだと思うのだ。

同様に、国語を学ぶということは、主人公の情緒に深く共感しながら物語を楽しむ能力を磨いたり、論理的な文章をしっかりと理解する能力を磨いたりすることだったりするだろう(たぶん)。

そのような能力を数値化することは極めて難しい。本当なら一人ひとり、何時間もかけて多岐にわたる調査をして、見極めるべきなのかもしれない。

しかし、そのような調査はとてもじゃないけど実行できない。予算にも人員にも限りがあるからだ。だからペーパーテストを行い、ある程度の精度で到達度を測ろうとしている。これが自分の「テスト」というものへの理解である。

だとするなら、仮にペーパーテストでの設問形式に不満があったとしても、それを教科自体の価値の問題にすり替えるのは論理の飛躍であるはずだ。


余談:国語の選択問題対策は身もふたもなかった

浪人時代、予備校で国語の選択問題の取り組み方が説明された。

「国語の選択問題はフィーリングで解いちゃだめ。問題を作る側からしたら、なぜこの選択肢がハズレなのかという問い合わせに回答できるようにする必要がある。そして、ハズレ選択肢を作る時の手札というのは意外と限定されている。簡単なパターンとしては、本文と主張が逆になっているものがあったりする。生徒が意外と苦戦するパターンとして、「絶対」とか「誰もが」といった言い過ぎの選択肢や、好感度の高い内容だが本文と無関係という選択肢などもよく作られている。そういったポイントを抑えて、選択肢を消去できるようになるべきだ。」

こんな説明である。この指導一回で、国語の選択問題はほぼ間違えなくなってしまった。

ありがたいテクニックだと思う一方で、テストを作るということの窮屈さを目の当たりにしたという思いもあり、強く印象に残っている。

だからこそ、テストというのはあくまでも「ボチボチの精度で到達度を測るコスパのいい方法」という程度に受け止めるべきだ、という思いはなかなかに強いのである。