オーディブル記録16『熟達論』
「走る哲学者」こと為末大による著作。集大成的な一冊らしい。
先んじてポッドキャスト『超相対性理論』で為末氏をゲストとして熟達論についてのトークを聴いていた。流しぎみに聴いてしまったが、「面白そうな本だな」という印象は残っていた。
オーディブルで発見し、「だったらこれを聴いた後であらためてポッドキャストを聴き返すのもいいな」と考えて聴き始めた。
概要
為末氏は「何かについて熟達する」ということについて、競技人生が終わった後も考え続けてきた。それは個人の経験や実感を振り返って言語化するにとどまらない。例えば将棋の羽生善治、iPS細胞の山中伸弥、ハンマー投げの室伏広治など、様々な熟達者と話し合う機会の中でも深めていった。いわばライフワークのようなテーマだったのだ。
その探求の末に、熟達というプロセスに普遍的な要素を見出し、言葉として落とし込んでいったのが本書である。
成熟の段階を描く理論として有名なのは「守破離」だろう。師の教えを忠実に守る「守」の段階、自分で考え工夫する「破」の段階、独自の新しい世界を確立してみせる「離」の段階。
一方、本書では熟達が5つの段階に分かれている。オーディブルで文面を確認できず、かなり精度が低くなってしまうが、ごく簡単に概要をまとめよう。(なお、本書はいずれ購入してじっくり読みたいと思っている)
第一段階 遊
熟達への最初の段階は遊びから始まる。例えば、100メートル走の走者への第一歩にしても、走ること自体が楽しくて、タイムなど度外視で走ることそのものを楽しむ段階から始まるのだ。後先考えずに全力を出すと言う経験をしたり、必ずしも合理的じゃない動きを色々と経験したり、幅のある経験を蓄積できる。
第二段階 型
何かに熟達するためには、先人の残した型の習得は避けて通れない。「個人の個性を伸ばすのに型は邪魔になる」という意見もあるが、やはり時代を経ても風化せず受け継がれてきた型には、ものごとの根本に通底するようなものがあるのだ。
第三段階 観
型に馴染んでくると、徐々に意識せずとも型を実践できるようになっていく。車の運転などがわかりやすいだろう。
意識せずに型を実践できるようになると、自分がやっていることを、自分の外側から観察できるようになる。「この型はどういう合理性があるんだろう」、「他の型とはどういう関係があるのだろう」などなど、多角的に観察できるようになっていく。やがて複数のアプローチについて、その背景にある理論や構造に習熟していき、本質的な理解が深まっていく
第四段階 心
型そのもの、さらには対照そのものへの理解が深まっていくなかで、不意にその物事の核心を体感的に理解してしまう瞬間が訪れる。こうなると強い。新しい型を色々と試したとしても、それでバランスを崩してスランプがやってくることもない。新しいアイディアがうまくいかなかったとしても、核心を忘れていないので、そこに戻ってくることができるのだ。
本質以外の部分について脱力するようなことも可能となり、達人が見せる動きの無駄のなさにもつながっていく。本質を掴むと自由自在になれるのだ。
第五段階 空
核心をつかみ、自由自在になってきたところで、さらに体調、集中力、緊張など絶妙にマッチしたときに、いわゆる「ゾーン」を体験することになる。それはもはや自分が意志して行為しているという状態ではない。自分の体が勝手に行為しているのを、もう1人の自分が見つめているような状態だ。
感想
為末氏による5段階の熟達論はとても納得のできるものだった。なんなら、「そういわれてみれば、自分もそう思ってたような気がしてきた」と思わされた。だがもちろん、こんな言語化はとてもじゃないができていなかった。
本書が素晴らしいのは、為末氏の陸上競技時代の体験に目指した具体的なエピソードが多数説明に用いられていることだろう。しかも個別のエピソードがそれぞれ説明の道具として適切なだけなく、未知の世界をのぞき込むようなオモシロさを備えているのだ。
また、序盤にとても面白いくだりがあった。同じ事柄で躓いている競技者が二人いたとしても、それぞれへのアドバイスが異なることがあるという。それは、相手が熟達の段階のどこにいるのかによって、かけるべき言葉が異なるからだ。
これは言われてみれば当然ともいえるのだが、わが身を振り返るとこれが全然できていないなと思わされる。
自分自身、熟達の道をある程度進んでいる項目はある。そして、やっぱり自分にとって大事なのは、第3段階の観や第4段階の心の部分になる。そこで自分が感じた成長の手ごたえがあまりに格別で、それ自体をどうやって伝えるかということばかり考えていた気がする。
「自分の中の思い入れが強いことを一足飛びに教えたい」というのは強い誘惑である。相手の熟達段階を把握し、そのうえで必要なアドバイスを与えるというのはとても専門性の高いことなのだと思い知らされた。