雑記:優性と劣性(顕性と潜性)

2ヶ月ほど前、某有名シンガーが以下のようなツイートをして炎上した。

「藤井聡太棋聖、すごい。想像もできない世界だなぁ。おめでとうございます」
「前も話したかもだけど大谷翔平選手や藤井聡太棋士や芦田愛菜さんみたいなお化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべきなんじゃないかと思ってる。 お父さんはそう思ってる #個人の見解です

これは優生思想ど真ん中の内容を無邪気に発信してしまっており、炎上に至ったのもうなずける。ストレートにダメなのであえて指摘する点は無い。

ただ、このトピックについて言及する際に、劣等な遺伝子という意味で「劣性遺伝子」に言及してしまった某アカウントが炎上するという連鎖反応があった。

このまとめでは、「劣性遺伝子とは言っても、遺伝子の発現のしやすさが違うだけでそこに優劣なんてない」という主張が大量に出てくる。その光景を見て死ぬほどモヤモヤした。しかし、当時は考えを書き留める場を持っていなかったので、モヤモヤを発散出来ずに終わってしまった。ふと思い出したので、書いてみたい。なお、本記事内では、引用記事との連続性の観点から、「顕性」と「潜性」をあえて用いないことにする(※1)。

劣性遺伝子=劣った遺伝子か

劣性遺伝子は「対立遺伝子のうち、形質が発現しづらい方の遺伝子」と定義される。その意味で、上記まとめの流れは正しいといえる。

劣性遺伝子の具体例を見てみよう。例えば、人間の血液型において、O型は劣性遺伝子といえる。だが、O型と他の血液型との間に優劣の関係はないだろう。

優劣が存在しないだけでなく、明確な存在意義を持った劣性遺伝子も存在する。有名なのが鎌状赤血球だろう。その遺伝子をホモで持つと貧血症を生じ、たいていは成人まで生き残れないが、ヘテロで保有するとマラリアへの耐性が高まる。

あるいは、もち米の遺伝子を例に出してもいいかもしれない。コシヒカリなどのいわゆる白米は、うるち米と呼ばれている。ただし、ある対立遺伝子が劣性ホモになると、もち米となる。うるち米ともち米、それぞれに役割があり、どちらが優れているという言及が妥当でないことはすぐにわかるだろう。

そうは言っても

近交弱勢という現象はご存知だろうか。遺伝的に近いもの同士で交雑すると、有害な劣性遺伝子がホモ化して表現型にあらわれてくるという現象だ。ここでは、劣性遺伝子に有害なものがあるという前提が存在している。

なぜ、劣性遺伝子に有害なものがあるのだろうか。これは逆を考えてみると理解しやすい。有害な形質が優性遺伝子だった場合、どうなるだろうか。その遺伝子を一つでも持てば、それは形質として発現することになる。その結果、この優性遺伝子を持った個体は子孫を残すことが難しくなる。十分な時間が経過すれば、この遺伝子は淘汰されるだろう。

一方で、有害な形質が劣性遺伝子だった場合はどうだろう。こちらは、淘汰が進むにつれ、その遺伝子がホモとなる頻度が減り、除去されるペースがどんどん落ちていく。そして、最終的にある程度の頻度で残ることになるのだ。

基本的に、有害な形質についての優性遺伝子が存在したとしても、それは十分な時間を経ていれば淘汰される。だから、有害な形質で現存しているのは、劣性遺伝子ということになるというわけだ。

「劣性遺伝子=劣った遺伝子」と断言することは確かに間違いではある。しかし、進化の過程を考慮するなら、「劣性遺伝子は優性遺伝子と比較して劣らない可能性もあるが、劣っている可能性もある」と表現できるのではないだろうか。その点をどこまでも無視して、「発現のしやすさしか違わない」と説明をするのも不誠実な気がするのだ。

何においての優劣なのか

ただし、上記の話は、あくまでも進化論的な観点での話だ。すなわち、「子孫をより多く残す上で優れているか」というモノサシの上で優劣を論じてしまっている(※2)。

人間社会における優劣は、子孫をより多く残せるかという単純な指標では決まらないだろう。人間社会をよりよくアップデートできる人、職人的な仕事で活躍できる人、人が集まる場の空気を良いものにできる人、一人で黙々と作業に没頭できる人。現代社会における優れた人間の像は多様だ

だから、遺伝子の優性・劣性が人間としての優劣とリンクするというような理解は誤りだと言えるだろう(※3)。

まとめ

劣性遺伝子=劣った遺伝子という考え方は誤りである。しかし、その反論として提示された「優性と劣性の違いは表現型への現れやすさのみ」という説明は過度に単純化されているようで、個人的に違和感がある。

進化の過程では、子孫を残す上で不利となるような優性遺伝子は淘汰されてしまう。その意味で、劣性遺伝子に不利な形質が集中するのは事実だ。

ただし、現代社会における優劣と、進化の観点における優劣は別物だ。人間社会において、どのような形質が優れているとみなされるのかは、あまりにもケース・バイ・ケースであり、進化の観点では不利だった形質が、長所として作用するケースも十分に考えられるだろう。

「遺伝子の優性と劣性は、優れたもの、劣ったものを意味しない」という言葉には、この程度の行間は存在するものだと思っている、という話でした。


※1 「優性」と「劣性」という用語自体が、誤ったイメージの元になっている。そこで、日本遺伝学会では優性に対応する語として「顕性(けんせい)」、劣性に対応する語として「潜性(せんせい)」と改めることとしている。しかし、本記事では、経緯との関連を優先して「優性」と「劣性」で呼び分ける。

※2 自然界において、ある形質が子孫を残す上で有益か否かは、生育している環境や天敵の存在によって左右される。だから、ある環境において不利な遺伝子を「劣った遺伝子」とみなすこと自体も軽率であると言える。

※3 ただし、そうは言っても「進化論的な観点においても、現代社会においても、共通して不利となるような劣性遺伝子」が全く存在しない、とまで言えるのかについては、少々疑問に思っている。もちろん自分は優生主義者ではないので、そのような遺伝子を排除すべき、だなんて全然思っていない。むしろ遺伝的な特性は優劣とは関係のない個性として受け入れるべきだと思っている。仮に不利になるような遺伝子があったとしても、テクノロジーや制度設計、相互理解によって乗り越えようと努力していくべきだろう。