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試論:非存在の不可能性から導かれる信仰の合理性と人間存在の貴重性

 無は存在しない。これは自明である。従って、無になることができる者も存在しない。我々は存在を強制される。
 死後、無にはなれない。つまり、生まれ変わるということは、転生という現象を証明する背理法によって推論される。つまり、

 前提:転生という現象は存在しない
 →現存するすべての存在には、前世も来世もない。=すべての存在(「有」とする)は、無から生じて、無に還る。→「無⇄有」の図式が成立し、存在は無存在と有存在の循環の中にある。
 よって、転生という現象は存在し、前提に矛盾する。したがって、前提は偽であることから、転生という現象が存在することが証明される。

 ここでは、前世の行いが来世で報われるというような因果論について議論しない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。だが、そうであることを証明する有効な議論を筆者は知らないので、そうでないことを前提に議論を進める。
 さて、存在することしか許されない我々にとって重要なのは、存在のあり方である。
 人間というあり方は、転生という現象に対して無力である。寿命があるからだ。前世の行いが来世に報われないという前提から、今生でどれだけ優秀で、善良な人間だったとしても、来世で同じような生き方ができるとは限らないことが分かる。
 転生現象に対して有効な対策を取らなければ、来世では十分に恵まれない身の上に生まれるかもしれない。生き地獄を味わうかもしれない。
 あらゆるリスクを完全に捨て去るためには、あらゆる権能を完全に具備している必要がある。そして、そのような存在は、人間社会では「神」と呼ばれる。そしてその不在は証明できない(悪魔の証明)。
 人間その他の卑小な存在にとって、転生とそれに伴うリスクに対抗することは難しい。ならば、対抗する力を与えてくれるような、超越的な存在を仮定して、救済を求める行為は、あながち不合理とはいえないどころか、十分な根拠があるといえないだろうか。
 故に、救済を与えられる存在として「神」を信仰することは、「そうすることができる存在」にとって、十分に意義のあることなのである。そしてこの「そうすることができる存在」とは、正しく人間のことである。
 このことが、人間が他の動物に比べて恵まれていることの証明である。なぜなら、他の動物は、神を信仰することを知らないからだ。神を信仰することは、人間のような知的存在の特権であるがゆえに、我々は恵まれているのである。

付記
 神を信仰することは、必ずしも宗教に入信することを意味しない。無宗教者であっても超越的存在に救済を求めることは可能だからだ。 よって、本論ではどのような宗教に入信すべきか、あるいはどの宗教にも入信すべきでないのか、という問題について議論しない。
 また、現実に起きる悲劇は神の不在を示さないことについて、筆者は一応の解答を持っているが、肉付けが不十分であると感じているし、本論とは議題が異なるため、本稿がこれ以上長くなると読者にとって不便だと思われるため、ここでは回答を控えることにする。
 

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