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開戦からスロバキアへの国境を越えるまで

Twitterには他の避難者への情報共有も兼ねて投稿していましたが、noteには個人の目線を中心に一部追記して記録を残しておきたいと思います。

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2022/2/24の朝に大きな音がして窓を見ると、大きな光と爆音が聞こえ、目視できる距離にミサイルが飛んできていると知りました。

最初の数日間は常に耳に神経を集中させ、攻撃音で距離や位置を確認していたので、ほとんど寝ることも食事を摂る余裕もありませんでした。
1ヶ月ちょっと前まで子供たちと楽しく見上げていたヘリコプターの飛行音は今や不快でしかありません。

・サイレンがなっていないのに我が家の窓スレスレで戦闘機が旋回したり
・家の周りが戦場になったという報道とそれを知ってパニックになった人がシェルターから外に逃げたり
・よく買い物に行くショッピングモールの近くで避難途中の親子がロシア軍に殺害されるというニュースが流れ
・家の周りの戦闘が落ち着いた後も数日間は銃声が聞こえる日が続きました。

「子供たちと(コロナでダウン中の)義母に数週間食べさせるだけの備蓄はある。どれだけ長期戦になるかわからないけど家から出てはいけない。」そう考えました。

そんな中、「早く逃げて」というTwitterのコメントが大量に届きました。

でも私は家の窓から見える煙や攻撃の残骸、パニックになった人たちがシェルターから逃げた時の光景や、避難途中の親子の殺害ニュースが頭から離れず、その本来なら好意的なアドバイスが重荷でしかありませんでした。
その度に「近所の情報は日本にいる誰よりも把握している。Twitterの人たちは私の避難経路が安全かどうか保証してくれない」と自分に言い聞かせました。
※ウクライナはIT社会。横のつながりも強く、ご近所さんのテレグラムグループがあり、随時顔見知りによる信頼度の高い情報が共有されています。

2歳の次女はイヤイヤ期真っ盛り。
一人で子供たち2人を連れて国境を目指し難民となる不安。
避難途中に殺害されるかもしれないという恐怖。
避難せずに備蓄でやりくりできるんじゃないか?避難先に食料や寝泊まりするところはあるのか?
このままここにいるのが安全じゃないか?
逃げられる人だけでも逃げた方が残る人が備蓄を長持ちさせられるんじゃないか?

何が子供たちにとって一番良い選択となるか、ぐるぐる考えていました。

徐々にKyiv市内が落ち着く一方、他の街での無差別攻撃やロシア軍が原子力発電所を攻撃し始めたというニュースが流れ、気持ちが「タイミングを見て子供たちと私だけでも避難しよう」に変わり始めました。

そんな中、別のご家族から「国境越えることにした。一人で子供たちを連れて行くのが不安でも一緒ならどうかな」と連絡をいただき、このチャンスを逃してはいけないと一緒に国境を目指すことにしました。ご家族には道中いろいろ助けていただきながら国境までご一緒させていただき、感謝しても感謝しきれません。

義母の職業はジャーナリストなのですが、ウクライナのジャーナリスト協会に避難ルートの情報提供の相談をしたところ、ジャーナリスト協会が目的地の「ルーマニア」国境の街の市長さんに連絡をしてくださり、なんと市長さんが私たちの保護と国境までの送迎を申し出てくださいました。
※ウクライナのジャーナリスト協会は外国人ジャーナリストの保護や避難のサポートをしています。

ルーマニア国境行きの電車がキャンセルとなってしまい、その街に行くことはできなくなりましたが、ウクライナのジャーナリスト協会や、ルーマニア国境の街の市長さんに敬意と感謝の意を表したいです。

避難当日、初めて大通りまで出ました。街の様子を見るのも怖かったです。

地下鉄の駅に着くと、見慣れた駅とは大きく異なり、いつもの入り口は鉄の重々しいゲートが締まり、小さく開いた別の入り口に警備隊の方がいらっしゃいました。
地下鉄の近くのスーパーはおそらく優先的に食料が運ばれており、買い物袋を持った人たちが地下鉄の中に何人も入っていきました。

地下鉄のホームには毛布を敷いて寝る人やアウトドア用品を持ち込む人たち。犬と一緒の人もいました。

Kyiv中央駅は多くの人がいるものの、大きな混乱は見受けられませんでした。
たくさんの犬連れの家族がいて、愛犬を連れて来れなかったことに胸が締め付けられました。

Kyiv中央駅

夫と義母は駅まで見送りに来てくれましたが、子供たちには「旅行に行く」と説明しており、笑顔で「お土産買ってくるね」と別れを告げました。

日本に帰国後も「いつ帰るの?Tato(お父さん)はどこなの?Tatoがいなくて寂しいよ」と娘たちに毎晩聞かれて、こんな辛いことは早く終わらせたいと心から願っています。

予約していた寝台電車が直前にキャンセルとなり焦りましたが、前日には中央駅の近くにミサイルが落ちていたので駅で一晩過ごすより前に進むことに決めてノープランのまま他の行き先電車に飛び乗りました。

たくさんの人が乗り込んでいたので座席が確保できず通路で困っていたら、子連れということもあってか駅員さんが予備の部屋を開けてくださいました。
寝台列車だったので子供たちは横になって寝ることが出来ましたが、やはり感じるものがあるのか子供たちが入れ替わり何度も泣き大変でした。
それでも車掌さんが何度も様子見に来てくださり「これ飲ませてあげて」と大きな水のペットボトル(但し炭酸水でちょっと笑いました)をくれたり、おむつやクッキーをくださいました。
夜中に疲れ切っていた時にも「お母さんも大変でしょ」と温かい紅茶とパンをくださり嬉しかったです。

翌朝、気づいたら小さなお友達が一人増えてる❗️
お母さんが疲れ切った顔で「夜中ずっと泣いていた」と...
うちの子たちと楽しく遊ぶ姿を見てホッとされたようで何度もお礼を仰っていました。次女と同じ2歳のお子さんと2人だけで避難されているとのこと。同志としていろいろお話しをさせていただき、電車を降りる時は荷物を運ぶのを手伝ってくださいました。出会いに感謝です。

ノープランで飛び乗ったため宿泊先の確保ができず不安が膨らみました。
夫の友人のお母さんが途中駅に住んでいるから泊まっていいと仰ってくださったので、終点手前のちょっと大きめの駅で降りました。

駅構内を見てびっくり!

ボランティアの方が軽食を配っていて、スロバキア国境行きのシャトルバスまであり、泊まらずにこのまま進もうと決めました。
ここでもみなさんに親切にしていただきました。

国境行きのバスの中から撮影

バスを降りた後、国境手前の行列では混乱を避けるために区画ごとに人数制限がありましたが、区画ごとにボランティアさんが子供たちにお菓子をくださり、子供たちは急に元気になりました。
次女抱きながら荷物を運ぶ私を見て、ボランティアの方が荷物を運ぶのを手伝ってくださいました。

2022.3.4 ウクライナとスロバキア国境の行列

国境まで付き添ってくださったボランティアさんはKyivの工科大学をご卒業で、数年前まで我が家の近くにお住まいだったそうです。
街の様子をお伝えしたところ、しばらく言葉なくお辛そうな顔をしていました。
そして一言「Yes, we have to be brave.」
自分自身に言い聞かせるように仰っていたのが印象に残っています。青春を過ごされた土地でまだご友人もKyivにいらっしゃるだろうし、心中察するに余りあります。そのなんとも言えないその表情に返す言葉が見つかりませんでした。

国境を渡る瞬間の写真を撮ろうと思っていましたが必死すぎて気づいたら国境超えていました。次女はずっと抱っこ紐で運んでいましたが、長女は泣かずに頑張って国境を渡り、親として誇らしいです。

国境越えた先はEU全土からのボランティアさんで溢れていました。
無料でSIMカードを配ってくださり本当にありがたかったです。

他にも炊き出し、ベビーフード、オムツ、衛生用品が山積みになっていました。
他にも衣類やベビーカー、チャイルドシートまで用意されていました。

チャイルドシートには驚きましたが、国境に物資を届けに来たボランティアさんが帰りに車に乗せてくれるため、チャイルドシートはかなり重要だなと思いました。

「何かお困りのことはありますか?」と声をかけてくださったスロバキアの兵士さんに
「どこか泊まるところはありませんか」と聞いたら難民キャンプに案内いただきました。中は暖かく生き返りました。
日本に帰りたい旨をお伝えすると飛行機を調べてくださり「プラハに行くのが良い、ちょっと待ってて」とバスの時間を調べてくださいました。

「出発30分前に荷物運ぶの手伝いにくるね!」と仰っていたのですが、暫くしてお戻りになり「バスは満席になったからボランティアの送迎を確保したよ!」

こんなに気配りのできる方に巡り会えたこと、本当にラッキーでした。

スロバキアにある難民テント

ここで国境までご一緒した家族とは別れ、私たちはボランティアさんの車に乗りました。
6時間ほど乗り、ボランティアさんのお家に泊めてもらいました。
山の中にある大きなお家。街と山を行き来する娘さんご家族のお部屋だから自由に使って。と言って貸してくださったのはふわふわのベッドにシャワーとトイレ付きのお部屋。
ボランティアさんの優しさに包まれ、安心して寝ることが出来ました。

翌朝、お孫さんのおもちゃで子供たちは遊び、私は美しい景色とボランティアさんのホスピタリティに癒されました。

多くの方がずっと励まし続けてくださり、人の温かさに感謝するばかりの国外脱出でした。

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