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土曜の夜と日曜の朝(マイノリティとしてのインテリ)

アゲアゲ感覚

 第二次世界大戦後、植民地の独立やスエズ動乱に直面し、19世紀に築き上げた輝ける帝国の崩壊期に突入した1950年代のイギリスに、「怒れる若者たち」と呼ばれる新世代の作家たちが登場した。その中のひとりアラン・シリトーは、1958年、デビュー作『土曜の夜と日曜の朝』を発表する。その作品は、のっけから、アゲアゲ全開である。

 あちらこちらのテーブルで飲めや歌えの馬鹿騒ぎをくりひろげていた連中は、アーサーがあぶなっかしい足どりで階段の降り口へと歩いてゆくのを見て、あいつひどく酔ってるぞ、あぶないことになりそうだぞ、とみんなそう思ったはずだが、だれひとり声をかけて席へ連れもどそうとしなかった。彼の胃袋のなかで大ジョッキ十一杯のビールとグラス七杯のジンとが激しく渦巻き、彼は最上段から一気に下までころげ落ちた。

『土曜の夜と日曜の朝』

 冒頭の第一段落だが、シリトーの書く言葉は、週末の昂揚した酒場の空気に染め上げられ、迫りくる小波乱への期待の高まりに同調しつつ、期待通り、主人公アーサーの派手な転落というアクションによって盛大な景気づけの花火を打ち上げてみせる。『土曜の夜と日曜の朝』は、祝祭としての土曜の夜の煌めきを生き生きとした筆遣いで活写した秀作だ。シリトー三十歳の作品は、二十代の若者の肉体と息遣いを弾むようなリズムとともに読む者に伝える。

 だって土曜日の夜じゃないか。一週間のうち最高の、いちばん心はずむ陽気な晩。一年三百六十五日の重苦しいでかい輪のなかに五十二回しかない息抜きの晩。どうせぐったり寝て暮す安息の日曜日への凶暴な序曲。つもりつもった激情が土曜の晩に爆発し、工場での単調な重労働の一週間の残りかすが全身から一気に、底抜けの善意となってほとばしる。「酔おうぜ、楽しもうぜ」をもっぱらの標語にして、抜け目なく女どもの腰に手をまわし、飲むほどに五臓六腑にしみわたるビールの味のすばらしさ。

『土曜の夜と日曜の朝』

 このような陽気なリズムに満ちた文章(永川玲二の訳文が素晴らしい)は、労働者階級の日常を生きる二十代の若者の身体に支えられてこそ実現したのだと思う。シリトー自身、なめし革職人の息子として生まれ、十四歳で学校教育を終えると、自転車工場やベニヤ板工場で職工として働いた経歴の持ち主である。観念よりもまず肉体があり、肉体的反応がほぼすべてだ。その即物的な生のスタイルは健康的と称されるもので、大地から足が離れることはない。「一年三百六十五日の重苦しいでかい輪」は所与の条件としてあり、その輪のなかでどう立ち回るかが、アーサーの腕の見せ所である。

 アーサーの生活環境としてあるノッティンガムはいかなる懐疑の対象ともならない自然環境のようなものとしてあり、彼自身の肉体も「いま・ここ」において特権化され、非肉体的な知性のようなものは無価値なものとして関心の埒外に放り出される。たとえばノッティンガムの外へ、軍事教練のために十五日間留守をすることがあっても、結局は「おれに味わえる唯一の平和は軍隊からきれいさっぱりおさらばして、こりやなぎの並木の土手から釣り糸を垂れるときか、愛する女といっしょに寝てるときしかない」のである。「こりやなぎの並木の土手から釣り糸を垂れるときか、愛する女といっしょに寝てるとき」のみがアーサーの世界のすべてである。「軍事教練」を必要とする世界とはいかなるものか、という抽象的な思考の動きが発動することはない。「こりやなぎの並木の土手から釣り糸を垂れるときか、愛する女といっしょに寝てるとき」のみに限定された世界。これはこれできわめて安定した世界である。懐疑の精神を欠き奇妙に保守化した日本の状況に似ているとも言える。そのような日本の姿を、精神科医の斎藤環は、「ヤンキー化する日本」と呼んだ。

インテリ的身体の縮小感覚

 斎藤環が現代日本における「ヤンキー」的なものの重要性に気づかされたのは、1993年11月に発表されたナンシー関のコラムを読んだ時であった。ナンシー関は、そのコラムで、横浜銀蝿の元ボーカル「翔」の活動再開について言及し次のように語る。

 私はつねづね「銀蠅的なものを求める人は、どんな世の中になろうとも必ず一定数いる」と思ってきた。そしてその一定数はかなり多いとも思う。あえて具体的数字を挙げるなら、自覚している人が一千万人、潜在的に求めているのは三千万人にのぼると推測する。なんと計四千万人、日本の総人口の三分の一が「銀蠅的なものに対してひかれがち」であるとは、何ともおどろきである。勝手に勘定してびっくりしてちゃあ世話ないが」

『小耳にはさもう』

 ナンシー関の論評を読んだ斎藤環は、文字通り、目から鱗が落ち、自分は現代日本においてマイノリティだ、と震撼させられる。その衝撃を通して、現代日本にじわじわと広がり始めた反知性主義の動きをいち早く察知した斎藤は、自身のインテリ的身体の縮小感の由来を問うべく、ヤンキー分析へと向かった。そして書かれた『世界が土曜の夢なら』(2012年刊)は、話題を呼び、2012年暮れには「自民党ヤンキー論」(朝日新聞)が発表され、翌年角川財団学芸賞を受賞するにいたる。

 ヤンキー自民党の淵源を、斎藤は、田中角栄に見出しているが、2010年に始まる斎藤の一連のヤンキー考察は、おりしも「ポピュリズム」なる言葉がメディアを賑わす時期と重なっていた。斎藤のヤンキー論は、ポピュリズムへの異議申し立てと言っていい。じっさい、斎藤の著作には、橋下徹や山本太郎の名前が意味深く登場する。2014年の時点で、斎藤は「そして山本太郎だけが残った」と、先の参議院選挙の結果を予言するかのような発言をしている。この言葉は、日本近現代史研究者の与那覇潤との対談(「補助輪付きだった戦後民主主義」『ヤンキー化する日本』)において、発せられた。この対談は、東京都港区から青森県北津軽郡(吉幾三の出身地)に強制的に連れてこられた都会人が「俺らこんな村いやだ」とボヤキ漫才を演じているようでとても面白い。

 小学校から東京育ちで、東京大学大学院で博士号を取得した後、名古屋に赴任した与那覇は、「この風土の馴染めなさは何かな」と気に病んでいたが、斎藤の本を読んで「名古屋ってヤンキー都市だからなのでは」と思い至る。一方の斎藤は、かつて司馬遼太郎が指摘したことのある「名古屋における都市の美学の不在ぶり」を、「ひつまぶし」を例に挙げ、「それは象徴的ですね。話を聞けば聞くほど『快感原則ぜんぶ載せ』みたいな印象になってきました。うなぎを三段階で味わい尽くす『ひつまぶし』が典型でしょうか。快感原則的な合理性を徹底すると隠喩性や象徴性といった文化が衰退するのかもしれませんね」と応じている。彼らの共通認識によると、「ヤンキー」とは「インテリには理解不能だけど、でも日本では現にマジョリティな存在」であり、政治的には「自民党以外入れたことがない人」ということになる。以下、彼らの発言から印象的なフレーズをいくつか拾ってみる。

・自民党は、もともとヌエ的な政党だったと思うんですが、完全にインテリ部分は消滅しましたね。
・総理大臣でまんじゅうを出すとか、インテリには耐えられないセンスですよね。
・インテリとヤンキーの共闘に、失敗した事例が社会党だったと……。
・丸山眞男風にいえば、日本の〝執拗低音〟は実は横浜銀蝿だったと。
・やっぱり理想を語るべき場面と、本音で語るべき場面の使い分けができなかったということが、ヤンキー主義の限界かな、という気がします。あの辺がまさに言葉を重視しないことの弊害と言えますね。
・個人主義抜きの民主主義は、結局は無責任な中間集団の競合になってしまう。
・五五年体制は、ヤンキーがプレイしても大失敗しないようにチュートリアルされたゲームだったんですね。いわば初心者でも操縦できる「補助輪付きの民主主義」だったのを、左のインテリたちがやっぱり補助輪を外さないと本当の民主主義じゃない、と考えて試してみたのが、九三年以降の二十年間でした。
・私はヤンキーの反知性主義も、思想や言葉が感覚可能な身体性を超えることを許さないため、革命も起こせない代わりにファシズムや極右のような過激化にも歯止めになるとは考えています。それは安心できる面でもありますが、少しでも社会を変えようとすれば、常にヤンキーの分厚い壁が……。
・『日本の起源』(太田出版)で与那覇さんが言われているように、七〇年代以降の日本はいたるところでムラ的包摂が起こり、「江戸より江戸的」な時代になった。この見解には全く同感で、この過程はヤンキー化とパラレルに進行したようにすら思います。あらゆる変革が保守の構造を強化する、きわめて巧妙なシステムですね。左翼すらもこのシステムから自由になれない。
・問題はそれ(江戸時代の農耕社会に最適化したエートス)が近代に入っても残り続けて、原発のように何十年間で廃炉にして、その廃棄物もまた時間をかけて処分してといった、超長期的な歴史意識がないと扱えない施設と共存してしまったことです。一方で反原発側も江戸時代人ないしヤンキーのままだから、「いますぐ止めろ」「俺の地域には瓦礫よこすな」「将来は知らん」となっちゃう。
・最大の切断は「公共」概念とセットで「個人主義」を再インストールすること

『ヤンキー化する日本』

 このへんで引用は打ち止めにするが、引用しながらある種の感慨というか懐かしさを覚えずにはいられない。斎藤と与那覇の対話の根底には、日本の空間におけるインテリ成分の希薄化現象への苛立ちと危機感が滲み出ているが、そのよう感覚は、対話のなかでも言及されている丸山眞男が近代日本の空間に対して抱いていた苛立ちと全く同じである。丸山眞男は戦後日本に「個人主義」をインストールしようと試みた代表的存在だった。戦後74年、私たちは「個人主義」のインストールに失敗したようである。やはり私たちはプレ・モダンのままなのだろうか。

簡単に近代(モダン)を復習すると

 2015年の衆院憲法審査会において、与党に推薦されながらも、政府の安保法案を憲法違反だと指摘して話題となった長谷部恭男は、丸山眞男の論考を参照しつつ、憲法という原理を近代(モダン)という時代そのものの特性と結びつけて定義づける。長谷部の著書である『憲法とは何か』(岩波新書)は、立憲主義の成立の背景に近代という時代の混乱状況があることをまず確認する。この書物の冒頭にドン・キホーテとハムレットが登場するのそのためだ。ドン・キホーテとハムレットは、私たち自身のことである。

 ドン・キホーテとハムレットおよび私たち自身が生きる近代的世界とは、唯一の真理がおびただしい数の相対的真理へと解体され、価値観というものが多元化した、豊かである反面、複雑で非常に面倒くさい世界である。統一基準を欠いた、わかりやすさが禁じられた世界を受け入れた上で、なお秩序を形成しようと試みるのが立憲主義の精神であった。

 そのために立憲主義がまず用意する手立ては、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域に区分することである。私的な生活領域では、各自がそれぞれの信奉する価値観・世界観に沿って生きる自由が保障される。他方、公的な領域では、そうした考え方の違いにかかわらず、社会のすべてのメンバーに共通する利益を発見し、それを実現する方途を冷静に話し合い、決定することが必要となる。
(略)
 これは人々に無理を強いる枠組みである。自分にとって本当に大切な価値・世界観であれば、自分や仲間だけではなく、社会全体にそれを押し及ぼそうと考えるのが、むしろ自然であろう。
(略)
繰り返しになるが、立憲主義は人間の本性に反している。(略)みんなが同じ価値を奉じ同じ世界観を抱く「分かりやすい」世の中であれば、どんなにいいだろうと思いがちなものである。
(略)
 政治思想家の丸山眞男は、日本型ファシズムの精神がまさにそれであったと指摘している。そこでは、公的領域と私的領域の切り分けは否定される。すべての人のあらゆる生活領域は、究極の価値を体現する天皇との近接関係によって一義的に位置づけられ、この評価の尺度は、日本を超えて他の民族、国家にも押し及ぼされる。

『憲法とは何か』

 多様性が真に確保されるためには、「人間の本性に反して」でも、「分かりやすさ」の誘惑を斥けなければならない姿勢の必要性が確認されている。多様性を保障する公的領域=普遍性を実現するには、自然なものとして感じられる私的な肉体の自明性を疑ってかかる必要がある。自然への闘争というか、自然を抑圧することを肯定する倒錯的な資質が公的空間を創設するには必要となるのだ。「公的領域と私的領域の切り分け」とは、母性的な自然への闘争と同義であろう。そうした切断の実践は、一神教的な厳しさを伴わずにはいられないが、それこそ日本人の苦手とするものであろう。一神教=厳父の風土においてこそ「公的領域と私的領域の切り分け」という倫理的な実践は機能するが、日本的な母なる自然の風土においては「公的領域と私的領域の切り分けは否定され」、曖昧に癒着してしまう。母と子が密着して甘美な親密空間を作り出すように。斎藤環が、丸山眞男同様、警戒するのは「公的空間」(近代)に背を向けて内閉するファンシー空間(前近代)である。

 斎藤環のヤンキー論においては、キーワードのように、「男性原理」と「女性原理」という言葉が繰り返し登場する。それは「公的空間」の創設に関わっている。男=父は、子を「私的領域」から切断し、「公的領域」へと追いやるのに対して、女=母は「本質性」という観念を拒否し、家庭という「私的領域」において、娘に「身体的な同一化」を通して「女らしさ」を伝えようとする。そこでは何が教育されているのか。

 ここで何が配慮されているか。相手に不快感を与えないこと、好感を持たれること、もっとはっきり言えば、相手から愛されることだ。要するに女らしい身体性とは、他者の欲望を惹きつける身体性を意味している。

『世界が土曜の夜の夢なら』

 このようなあまりにも人間的な欲望を前にして、「男性原理」がその原理を貫徹することはほぼ不可能に思われる。斎藤は「男性原理」について次のように述べている。

 いうまでもなく男性原理の発露の一つは、家族主義に抵抗する個人主義であるべきだからだ。そこに「育ててくれた父親のために」といった義理人情が少しでも絡んでくると、もはや男性原理を維持することは難しくなる。

『世界が土曜の夜の夢なら』

 公的空間や普遍性に関わる「男性原理」は、肉親に対する情けよりも普遍性への忠義を上位に置かなければならない。日本的風土においてこれを実践できるのは、極端なマイノリティではないか。「私的領域」あるいは「家族的親密空間」からわが身を切断する倫理をおのが身体にインストールしておくことが前提条件としてある。だがこうした倫理は日本においては健康なふるまいとはみなされない。

 だったら病人になってしまえ、というのが東浩紀の言い分のようである。

アウト・オブ・ヘルス(out of health)

 わが身を取り巻く風景を指して、斎藤環が「ヤンキー化する日本」と呼ぶのだとすれば、東浩紀は「テーマパーク化する地球」と言うだろう。それが健康的な(?)消費社会というものだ。消費社会のマジョリティはいうまでもなく消費者であるが、テーマパーク化に抵抗するには消費者的身体を破綻に追い込む必要がある。消費活動は等価交換の回路においてなされるのだから、別の回路を見いだす必要がある。東は、それを「贈与」と呼んでみたり、「歴史的暴力の現場」や「巨大災害の被災地」と呼んでみたりする。そしてまた、批評の現場を「病院」だ、と言明する。批評は英語ではcritic( al ) ということになるが、それはまた、「危機」という意味を持つ。どんなに健康的な人間でも、人生に一度は「精神的にも、文化的にも、知的にも、危機に陥るとき」があるのだから、その時には批評はその本来の批評性を取り戻すというのだ。危機に、東は、批評の僥倖を見いだしている。

 そしてまた、東は、懐かしくも、デリダの名を挙げ、(長谷部恭男同様)近代の危機を生きたハムレットについて言及する。

 デリダは『マルクスの亡霊たち(1993年)で、『ハムレット』の‟Time is out of joint”(「この世の関節がはずれてしまった」)というセリフに注目しましたが、ぼくにとっての哲学や批評はつねに、資本主義の時間から「はずれる」ためのもの、アウト・オブ・ジョイントするためのものとしてあります。批評が病院だというのも、病院は日常の時間の外にあるものだからです。

「職業としての批評」

 「時間の関節がはずれる」ことで、ひとは「たんなる消費者」とは異なる自分を発見できそうだ。シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』が非常に魅力的でありながら、若干の不満を感じさせるのは、主人公のアーサーがクールな消費者にとどまっていて、「長距離走者の孤独」の翻訳者河野一郎が言うところの「反体制的な反抗ではなく、≪非体制的≫な反逆」に自足しているからである。アーサーは結局のところ、「一年三百六十五日の重苦しいでかい輪」の外にある時間を感受するには、あまりに健康すぎるのだ。

 「時間の関節がはずれる」ことの危機を生きる作品に、たとえば、古井由吉の「木曜日に」がある。1968年に発表されたこの作品には、時代の騒乱と共振した異様な力がみなぎっているが、ここでは詳細に論じる余裕がないので、興味ある方は御一読を。

 ヤンキーの話題とシリトー作品『土曜の夜と日曜の朝』を扱ったので、その周辺の音楽を。まずはヤンキーのアイコンである矢沢永吉の「抱かれたい、もう一度」を。アメリカ進出を狙ったアルバムの収録曲。アメリカ進出はうまくいかなかったようだが、私はこの曲は気に入っている。

 次いで、ビリー・アイドルの「Rebel Yell」。革ジャン、リーゼントのイメージであるが、あまりに様式性が強くてパロディっぽい。宝塚がロックンロールするとこんな感じかな、という気がする。

 『土曜日の夜と日曜日の朝』ときたので、ビージーズの「サタデーナイト・フィーバー」。ビージーズはロックファンからは馬鹿にされていたけれど、メロディ・メーカーとしての能力は非常に高かったと個人的には思う。

 次にマルーン5の文字通り「Sunday Morning」。土曜の夜を共に過ごした恋人たちの日曜の朝の様子を歌っている。


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