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ファンタジーとしての「忍ぶ川」

 三浦哲郎の代表作「忍ぶ川」を読んだのは、中学を卒業して高校に入学する直前の春休みのことだった。雑誌で紹介されていたのがきっかけだった。その時の印象は、古き良き綺麗な世界だな、というものだった。「志乃」というヒロインの名前が古風だったが、この世界に似合っている、と思った。中学生のことだから、それ以上の深い感慨を持つことはなかったが、「純文学」というのはわりといいじゃん、という程度の認識は持ったように思う。最近、数十年ぶりにこの作品をふと読み直して、「志乃をつれて、深川へいった」という冒頭の一行に「へぇーっ!そうか、深川だったのかあ」と驚かされた。この作品の成功はロケーションの勝利であっただろう。私自身は、このあたりの地域は数えるほどしか行ったことがないし、この周辺のイメージは、主に小林信彦や宮部みゆきの作品を通して形成されているので、リアルな体感としては掴み切れていないのだが、それでも「深川」という言葉から立ち上る情緒はそれなりにわかる。

 「忍ぶ川」は時代劇だと思った。時代背景は昭和だが、登場人物が髷を結って和服を着れば、そのまま山本周五郎や藤沢周平の世界である。この作品が多くの日本人に今もなお愛されているのは、そこに時代劇の世界の感触を感じとるからであろう。1960年(安保の年)に発表されたこの作品は、いわゆる私小説で、大学を中退し社会に出た後、再び大学に戻り卒業論文を準備中という設定から計算すると、舞台は1950年代半ばから後半にあたるが、同時代的には、1955年に石原慎太郎が「太陽の季節」を発表し、1956年に経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した時期である。

 この作品は、同時代に背を向けていると同時にそれに浸食されている。また、背を向けるという退嬰的な身振りを通して、父的な世界の崩壊に同意してもいる。であるがゆえに、「忍ぶ川」はファンタジーへと接近するのだが、そうすることで近代的な知の視線、言い換えれば、社会学的な批評の発動を遠ざけてもいる。

 「忍ぶ川」という料亭の看板娘である志乃は、なかなか微妙である。この小説は1972年に熊井啓によって映画化されたが、栗原小巻がヒロインを演じ、そのヒロイン像を映画評論家の佐藤忠男は「場違い」と評した。佐藤は「ちょっと現実にはいそうに思えない」ともいうが、佐藤の言葉は言い得て妙である。一言でいうと、「忍ぶ川」という小説もヒロインの志乃も「耐えるファンタジー」という言葉がしっくりし、その佇まいによって、作品を成立せしめている。ここで志乃の経歴を紹介すると、栃木の紺屋の長男でありながら、学問にかぶれて勘当された父とくるわの射的屋を営む母の間に生まれ、戦争で深川を焼け出され栃木に疎開した後に、病弱な父と幼い弟や妹たちを養うために東京に働きに出て、東京の大学(おそらく早稲田大学)に通う主人公と知り合った。志乃は戦後という時間が侵入する以前の深川の風景を愛し、学問的素養もあった父の価値観を引き継いでいる。そうであるからこそ、戦後再び遊郭として復興した「洲崎パラダイス」の「パラダイス」という戦後の言葉を志乃は嫌うのだし、主人公と深川の町を歩いている最中、二階の部屋で休息中の娼婦たちから噛みかけのガムをぶつけられ、映画では「綺麗ぶっているんじゃないよ」と罵声を浴びせられる場面では「むかしのお女郎さんはあんなじゃなかったわ。玄人っていうことにかけては、いまとはまるで段ちがい」という言葉を発するのである。ここでは戦前(ファンタジー)と戦後(リアル)がぶつかり合っている。

 佐藤忠男はそのようなヒロイン像を「ずっとむかしの零落した侍の娘かなにか」と言っているが、『仁義なき戦い』の脚本家で、自身、遊廓の息子だった笠原和夫によれば、じっさい江戸の吉原では武家が零落したり、大きな商家が破産すると、買いつけ人が金を持って駆けつけ、将来の花魁に育てあげるべく、それらの娘をスカウトするのだという。下町の娘では、世間ずれしているので、絶対に花魁にはなれないという。花魁は零落した上層階級の出であるらしい。志乃にもそういう雰囲気はある。だから映画での栗原小巻は適役であった。映画自体は生真面目に作ってはいるものの、画面が弾まないし、俳優の肉体が意味の従僕のように精彩さを欠いていて評価できないのだが、栗原小巻のささやかなアクションや表情でなんとか作品が成立していたと思う。主人公の目の不自由な姉を演じた岩崎加根子には異様な迫力があった。主演の栗原小巻と加藤剛は私の贔屓の俳優だが、ともに俳優座の出身で、二人とも表現に対する信仰が揺るぎなく、戦前(ファンタジー=モダン系)と戦後(シニカル=ポスト・モダン系)でいうと、前者のタイプである。

 小説のほうに話を戻すと、志乃が主人公の語り手に語るエピソードに次のようなものがある。子供の志乃を可愛がってくれた「お仲さん」という女郎が胸を病んで、動けなくなった挙句、服毒自殺を図るのだが、お仲が務めた女郎屋の人間は気味悪がって、だれも後始末をしようとはせず、見かねた父がなにからなにまで引き受けて棺を運んだという。無力な父の心優しき一面を伝えるエピソードで、志乃の語りにつられて作品全体の重心もファンタジーのほうへと傾斜している。ただ、言葉の運動は、別の方向もあるはずで、近代的な知の視線は、女郎の悲惨な死から、悲劇の消費を超えた、社会的歴史的考察へと向かうこともできるのだが、そのようなことは起こらない。ファンタジーだけでは不十分である。

 「忍ぶ川」は、主人公が学生の身分であること、6人兄弟の末っ子であること、家族を巡る悲劇の歴史から主人公がファンタジーを求めざるを得なかったこと、主人公の家も志乃の家も父親が病弱で、象徴界が機能不全に陥っていることなどの諸条件が重なって、ファンタジーの花を咲かせたようである。「忍ぶ川」の続編である「初夜」では主人公の父は死去し、主人公の母親は「もう、あんただけが、たよりだすけに、なあし。しっかりしてくんせ」と主人公に嘆願する。じっさい「忍ぶ川」以降の世界では、いろいろな現実的な苦労が主人公と志乃を待ち受けている。

 文学は基本的には象徴界と対立する、あるいはそれを補完する想像界に親和性が高いが(最近人文学界隈で耳にする「ケア」は想像界に属するものだろう)、象徴界や想像界の由来を問うような批評は、そのような閉域を超えるように機能するのだと思う。

 さて、ファンタジーと来たので、その周辺の音楽を。まずは文字通り、アース・ウィンド&ファイアの「ファンタジー」。それ以前は黒人音楽に興味を持つことはなかったのだが、この曲とスティービーワンダーの「回想」によって、俄然黒人音楽に興味を持つようになった。ただし、この曲は日本では人気があるようだが、海外ではあまりないらしい。

 お次はアトランティック・リズム・セクションの「イマジナリー・ラヴァ―」。このバンドについてはほとんど知識がない。日本人受けするように思われる調べなのだが、あんまり知られていないようだ。パンチ力不足だろうか。


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