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七眼の旅

— 富澤大輔・写真集 "GALAPA" のために

人間は古来、動物とともに生きてきた。動物はいろいろな局面で人間を助けた。馬がいなければ遠距離を移動することはかなわず、羊がいなければ氷雪に耐えられず、鷹がいなければ前線に指令を届けられず、犬がいなければ狩はうまくいかなかった。

近代はそれらを機械・人工物に代行させた。カメラもその一つ... と思いたくなるが、待てよ。カメラは何を代行しているのか。その「見る」能力においてカメラに先行した動物はいるか。...いないんじゃないか。

むしろ、カメラ自体が「動物」なのだと考えたい。動かないけど。

足も鰭も翼ももたず、ただ高度な視覚だけをもつ野生動物。これを飼い馴らし、愛情を尽して世話をすれば、やがて動物はその主の言葉を解し、主の志を遂げるべく、地の果てまでも主と行動を共にするだろう。もちろん、そこまでになるには、主の側に厳しくて楽しい修行が必要なのは、騎手や鷹匠と同じことだ。

全身が眼である動物。その精鋭七頭を率いて、写真家・富澤大輔は鳥取・境港から船に乗り、韓国・東海を経由してウラジオストックに到り、シベリア鉄道で草原を駆け抜け、ヨーロッパに達し、さらに大西洋を飛び越えてニューヨークに向かう旅に出た。

精鋭たちの名は、まず、ライカM3 (1954)。

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富澤に語ってもらおう。

「スナップカメラの最高峰と今日まで謳われている。美しいフォルムでありながら朝鮮戦争やベトナム戦争でも従軍写真家に愛用されるほどのタフさと速写性をもつ。木村伊兵衛やカルティエブレッソンも愛用した。道具としてまがいも無く一流品である。ファインダーを覗くと映画を見ているような感覚にもなる。大舘家から拝借して使っている」。

大舘家とは?ライカM3を日本に伝承する名家のことか?

次はローライ35 (1966)だ。

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「最高峰の設計士達が集まって制作された当時世界最小の35mmフィルムカメラ。搭載されているテッサーレンズは鷹の目という異名も持っている。後に開発される CONTAX-T2 などの高級コンパクトカメラへと繋がって行く。僕は高校の2年に神保町の太陽堂カメラで購入して以来愛用している。ポケットにすっぽり収まり、暗殺者の武器のようである。ウラジオストックに向かう船上で故障」。

おそらく旧ソ連 KGB の仕業だろう。しかし負傷したローライ35に代って新鋭が現れた。ローライ35s (1974) だ。

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「ローライ35にゾナーという名のレンズを搭載した機種。ゾナーで撮られた写真は色が一つ多いと言われるほど豊かな描写をする。ローライ35がウラジオストックに向かう船上で故障したため、ベルリンで購入」。

次に、コンタクスT2 (1990)。

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「高級コンパクトカメラ。どんな環境でも素早くオートで撮影でき、また仕上がりも美しい。現在ではローライ35sと一緒に持ち歩く事が多い。ストロボ撮影ができるので重宝している」。

T2 ははじめ、筆者・斎藤のもとにあって、一緒に建築を見に行ったものだ。薄明の札幌ドーム、雪中の青森県立美術館など、いくつもの絶景を見せてもらった。T2にはもっともっと広い世界を見てほしいと、富澤に託すことにしたのである。

ケルンから、アカレッテ (1950?) が加わった。

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「日本で情報あんまないから詳しくわからない謎の多いカメラ。ケルン大聖堂になぜか併設されている中古カメラ店で一目惚れして購入。プアマンズライカと呼ばれているが、丸みを帯びた金属ボディーは美しく、淡い描写も素敵である」。

大聖堂にカメラ店があるのは不思議ではない。創世記で神が最初に下す言葉は「光よ、あれ」だ。闇の空間に一瞬の光が射す。この初源のできごとを反復する小さな装置は教会にとって必要不可欠だ。

次は、ニコン35ti (1990)。

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「特徴的なのがボディ上面に設けられた大型の指針表示である。指針といってもメーターではなく、アナログ時計のメカを応用したもので、この指針で被写体距離、撮影コマ数、絞り値、露出補正の表示を行う。どうやらセイコーの子会社が設計を担当したらしい。高級コンパクトカメラで写りも使用感も申し分ない。とにかく指標表示がかっこいい。静岡のお茶農家から譲り受けた」。

指標表示を用いて精密にお茶を栽培するとは、さすがは静岡茶。利休の茶室に届けたかった。

次に、ライツミノルタ (1973)。

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「ライカ社とミノルタ社が協同開発したカメラで従来のライカのどの機種よりも小さい。ミノルタとライカの日独ハイブリッド。標準レンズとして40mmのロッコールレンズが搭載されている。これもまたタフなカメラで愛用している」。

そして、Agfa Optim Paramat (1963-68) 。

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「西独製の数少ないハーフサイズカメラ。ラジオの様なデザインに惹かれて衝動買い。サイズも小さく一本のフィルムで通常の倍撮影できる。どの写真も淡くボケた写真になる」。

いずれ劣らぬ能力と個性をもったこれら七つの眼が富澤に従って、地球上の街から街を歩いた。階段があり、女がいて、男がいて、雨が降り、ハプスブルグ家の末裔が珈琲を飲み、談笑し、犬がいて、達人がいて、修学旅行の中学生がいた。

それらの風景を人は「日常」とか名づけるのだろう。だが人間にとって日常であるとしても、動物にとっては少しも日常的ではない。それどころか、動物たちは全く見たこともないものを見て、驚いて、その驚きを主に伝えた。π (=3.141592...) や e (=2.718281... ) などを超越数という。それらはいかなるn次方程式の解にもならない。解になること、解けるということが方程式の「日常」とすれば、有理数 n/m や累乗根 √2, ∛5, .. などは日常の数であり、日常から超越しているのが超越数なのである。にもかかわらず、超越数は日常の隙間に潜んでいる。しかも日常の数よりはるかに高密度で。それを見つけられるのは、稀有の数覚/視覚をもつ動物だけなのだ。

主は動物らの報告に何も付け加えることなく、ただそのまま人間たちに伝えることにした。「表現」という言葉に漂う自己主張とは、彼は無縁だ。道元はいう。「仏法をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり」。自己を空にして「見る」ことのできる者にしか、視覚の野生動物は従わないのである。

DAISUKE TOMIZAWA
Photographs
GALAPA

https://galapa.kawaiishop.jp

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