さぞな旅寝の夢も見じ・2
(つづき)源氏が恋をした朧月夜がじつは政敵・右大臣の娘で、それが右大臣に発覚し、いろいろあって、源氏は京から追放され、須磨に流されることになりました。今の感覚なら、須磨は神戸と明石の間のところですから、京都からは新快速で1時間足らず。太宰府や佐渡ならいざ知らず、大して遠くないじゃん!て思います。平安時代だって、淀川を難波まで下り、そこから海を行けば、だいたい二日の行程だと思います。でも源氏にとっては「来し方の山は霞みはるかにて、まことに三千里のほかの心地」(須磨の巻)がするんですね。振り返れば京の山が霞んで遥か遠く見える。三千里ぐらい離れてしまったような気がする。
でも、さすが風流人だなと思うのは、須磨に到着してまずやったことが、同行してきた家司に指図して、屋敷の庭をととのえさせることでした。「水深う遣(や)りなし、植ゑ木どもなどして...」。庭に水路を掘り、植栽をしたのです。季節は夏から秋にうつっていきました。夜、皆が寝静まった屋敷のなかで、源氏は一人起きて、波の音を聴きながら、琴を弾きます。その音がわれながらあまりに哀しくて、こう歌うのです。
恋ひわびてなく音にまがふ浦波は思ふ方より風や吹くらん
恋いしくて切なくて泣く声に混じる須磨の浦の波の音は、もしや、思う方、みやこの方から、風が吹いているんじゃないだろうか。
定家の頭によぎったのは、この源氏の歌でした。思えば源氏の須磨配流は、何度も歴史上くりかえされてきた、あるいはその後にくりかえされる貴種流離のモデルとも言えるケースです。定家だって、そうなりかねなかった場面をぎりぎりで父・俊成に助けられたりしてました。後の世阿弥や利休は、助ける人がいなかった。たぶん紫式部はそういう世のからくりをよくわかっていて、ぜひとも須磨の巻を長編物語のなかに組み込もうと、最初から構想していたんじゃないでしょうか。切腹を命じられた利休はともかく、佐渡配流の世阿弥はきっと須磨の巻を思い出して、思うところがあったはずです。
深く源氏に同情する定家は、「思ふ方より風や吹くらん」という半ば願望の想像を、源氏のために現実にしようと、風に命じます。
袖に吹けさぞな旅寝の夢も見じ思ふ方よりかよふ浦風
源氏が「思ふ方」は大勢いたでしょうけど、特に思ってるのは、朧月夜のことでしょう(前note参照)。もちろん朧月夜も源氏を思っています。その思ひをのせて通う浦風は、よく眠れずに夢もみられずにいる、源氏の袖に吹きなさい。
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写真:スイデンテラス(鶴岡)|坂茂設計 旅寝のいい夢が見られる。