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真面目であることで損はしないけど(経済的な)価値があるかどうかに関係はない

##書いてあること
真面目であることと経済的に価値があることは決して密接な関係があるわけではない。ただ、真面目に働く人たちがいるからこそ、優秀な人たちがより輝けることは否定しない。

少し前に2チャンネル創設者の「ひろゆき」こと西村博之氏が自身のYouTubeチャンネルの録画放送(生配信)内で以下のように述べたことが話題となったが、このことについて真面目にやることしかできない側の視点から考えてみる。

「正しいことを言いたがる大人って『遅刻しない方がいいですよ』って言うんですけど、遅刻をしないことより、もっと大事なことがあるんですよ。外形的には、成果をあげてさらに遅刻しない人の方が、確かに優れてるんですけど。遅刻をしないことより、成果をあげることの方が大事なんですよ。なので、成果をあげられるんだったら、遅刻なんかいくらでもしていいんですよ。本当に重要なのは、成果をあげることなんですよね」

どうも、おはよう!会えなかった時のために、こんにちは!こんばんは!おやすみなさい!えんどう @ryosuke_endo です。

ひろゆきの意見には基本的に賛成

根本的な点で言うと、ぼく自身は彼の述べる「成果を上げることの方が大事」だとする意見に基本的に賛成である。

彼が述べる意見の中に、HUNTER×HUNTERの作者である冨樫義博がたびたび長期休載するものの作品が優秀であるからこそ連載が継続していることを引き合いに出している。

冨樫の休載はHUNTER×HUNTERにはじまったことではない。幽遊白書を描いていた時期にも週刊少年ジャンプでしょっちゅう休載していた。前回の話が何だったのかを思い出せないため、かなり苦労をした思いが蘇る。

ちなみにHUNTER×HUNTERの連載開始は1998年。2021年現在で連載13年を経過しているが、いまだに連載が終わる気配はない。物語は続いている。

何故なのか。

単純におもしろく、読み応えのあるマンガだからに他ならない。特にキメラアント編はとてつもないもので、リアルタイムで読んでいた立場からすると、その場に立ち会えたこと(ただ読めただけだが、そのこと自体)を感謝するほどだ。

キメラアント編とは、キメラアントというアリのキャラクターが出てくるわけだが、非常に強い敵役として登場する。最終的には敵役であるために倒されてしまうのだが、倒すまでの過程や描写も含めて重厚かつ濃厚である。ましてや、主人公とキメラアントが対峙することはない。物語に大きな影響を与えた敵役なのにもかかわらず、主人公は会わないのだ

そんな読むものを引きつけるような展開を頭の中で構築する能力を有していないぼくは、圧倒的に読者なのだ。真面目にコツコツと生活をしたところで、冨樫のような作品を作り上げることはできない。

いくら連載を休んだとしても、彼から生み出される圧倒的な作品の質があるからこそ、彼はいまだに連載を継続できるし、それだけの価値を生み出していることに異論は全くない。

だからといって、面白いマンガ=売れる漫画ではないし、遅刻しない=無能だと断言できるわけでもない。あくまでもぼくは一介の働くアリ側の人間だからである。

優秀な人が輝けるのは

キメラアントよろしく、冨樫が女王アリだとしたら、ぼくは働きアリだ。

重要なのは有能無能を何をもって判断するのかだが、「生み出せること」が一つの基準になるだろう

働きアリは自身に課せられている(もしくはDNA上に組み込まれている)行動をひたすらに繰り返す他にない。アリ塚も彼らが「考えて」作っているわけではなく、そう行動するようになっているからこそ作られているだけなのだ。

別に世の中で仕事をする人たちのすべてが働きアリなのだと述べるつもりはない。ここは間違って欲しくないのだが、自分が働きアリ側であることは自覚しているものの、他人にまでそれを強要するつもりもなければレッテルを貼るつもりもない。

いろいろな仕事がある中で、生み出せる人は大勢いる。歴史に名を残す人は多くはないが、歴史に名を残すような人たちがそうなるのは、その他の生み出せる人たちが存在したおかげでもある。

働きアリよろしく、女王アリが次々に生み出せるのは、下手くそで朴訥ぼくとつながらも従順に淡々と物事を進めることを担ってくれる存在がいるからこそだ。

優秀な生み出せる側が素晴らしい作品や製品、仕組みを構築したところで、それを実践できるだけの人をはじめとした「ネジ」や「歯車」が存在するからこそ受け止められ、評価されるのである。

そう考えると優秀な側でなかったとしても、誇りに思えたり持てる部分があるのかもしれない。

真面目でコツコツは報われないが

真面目でコツコツと取り組めること自体は大切なことではあるものの、報われることはほぼない。

社会的な評価を得るのはいつだって少数の限られた存在であって、多くの働きアリが評価されることなどない。あったとしても、それは集団としての評価であり、個人の評価につながらない。

もちろん、集団を構成するのは多くの個人だ。そういう意味では団体戦における勝利は獲得することはできる可能性はある。しかし、得点王や最優秀選手賞などの際立った個人となることはない。

皮肉で述べているのではなく、事実として生み出せる側の下支えをすること以外に働きアリにできることはないし、望むべくもない。

ただ、働きアリだからといって悲観的になることはない。

いくら努力をしたところで大谷翔平にはなれないのだが、大谷翔平が活躍するためのフィールドを整備することぐらいはできる。

どういうことか。

大衆に向けて評価を得ることはできないかもしれないが、自分自身で価値を見出し、自分自身で評価をすることはできる。

自分自身が歯車であったとして、それを否定する優秀な存在がいたとしても、そこに自分自身が価値を見出すことさえできれば、それで幸福なのだ。

自身の幸福を他人に委ねなくていい。自分で決めれば、決められるのであればそれがいい。

働きアリにだって幸福を求める権利ぐらいはある。

評価もされないし、経済的な価値も高くはないだろうけれど、そこに価値を見出すことぐらいはできるのだ。

一介の働きアリなりに見出した人生観である。

ではでは。

えんどう

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