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「不要不急」を温かくしたい

いま、日本の中で「不要不急」って言葉がピタッとはまる人、どのぐらいいるんでしょうね。

何を持って不要不急とするのか...なんて検索し始めたら、それなりに出てきます。その中の一つをピックしてみたのですが、「端的に言うと、命にかかわらない外出全てが不急の外出」(北村 義浩/長野保健医療大学)

これを基準として考えると、自宅にいることで命の危険を感じてしまう状況や環境でない限りは、外出をすべきではない、と言うことになります。

それだと、買い物にもいけません。

さすがに不要不急を避けるために買い物にもいかず、食事もできる限りしないようにしていたがために餓死、なんて笑えませんし、食事をすることは命を守ることでもありますので、必要に応じて出かけざるを得ませんよね。

ただ、そうは言っても、食事に出かけるようなことを避けていれば、飲食店は壊滅してしまいます。それでも、買い物に行き、食べたいと思うものを食べる、もしくは書いたいと思うもの、それらを購入するためには「お店が開いている」必要があります。

また、そこで働く人たちがいることが前提条件です。

ただ、現在の状況としては芳しいものではなくなっています。実際、すでに飲食店をはじめとした店舗経営が必要な業態において、物凄い損失を被っていることを報道や個人の発信する情報を受け取ることで把握していますし、知人からもリアルな体験として『開けてる意味がない』と強い口調で語られました。

「感染・重症化による命の危険性」と「経済的な意味での命の危険性」、どちらに対しても真剣に向き合わなければならない状況であることを考えると、安穏としてられないのだと実感します。

それらは別々の切り口として語られることもあるのですが、どちらも命を守ることに直結する事柄ですし、どちらか一方を優先したところで何も解決しません。

感染リスクはマスクを着用すること、手洗いを丁寧に行うこと、アルコールなどの消毒で殺菌を心がけることなどで防ぐことを意識しますし、何よりも可能な限り人と接触しないことを意識するだけで無駄な感染を避けることができます。

感染をしたところで無症状の場合もありますから、誰しもが「感染していることを前提に」他者との接触について再考し続けていけば、自ずから終息が見えてくるものだと期待できる、とぼくは考えています。

それだからと言って、経済を無視していいのかといえば、決してそんなことはないでしょう。「命よりも金なのか」といった批判は通じません。なぜなら、ぼくたちは食事をする必要があり、衣服を着用する必要があり、寝れる場所を確保しなければなりません。

そのためには、お金が必要です。いくら、お金の価値に対して再考する時代になってきていると言っても、生活をするためにはお金が必要なのです

「仕事」を受け、その対価として金銭を授受することをしてきた事実は、5年前も10年前も20年前も変わりませんし、継続されてきているもので、それは善し悪しではなく、必要なこととしてぼくたちは認識してます。

そのためには外に出て仕事の対価を得なければなりません。
外出しなければならない人がいるのです。
人と接近をしなければならない人がいるのです。
人が接することで資金を得られる人たちがいるのです。
すべてを守れるとはいえませんし、それを述べること自体が許されることではないような状態なのかもしれません。

ただ、この状況がいつまで続くのか、どうやったら終わるのかを知っている人は、現状の世界線においては誰もいません。誰も知らないのです。誰も知らないから、できることを繰り返そうとしているだけなんです。

誰も知らないからと言って、「坐して死を待つのみ」なんてわけにはいきません。これまでに継続してきた、積み重ねてきたものを失ってしまう恐怖を抱えながら、それでもお店を開けなければならない飲食店の運営者がいますし、現地・現場を持っていて、そこで働く従業員を抱える経営者がいるんですから。

見直さなければならないものがたくさんあることだってわかってきたのは事実です。わざわざ出向かなくても商談が成立するようになってきているのも事実だし、ただ集まるだけで形骸化した会議がなくなる必要があるのだって気づいてきましたし、出社しなくても仕事ができるような時代になっているのだということだって分かっている人は一定数以上いるはずです。

教育現場で日々、発信される政府情報に右往左往しながらも対応しなければならない教員の方々にも同情せざるを得ませんが、行事ごとにある校長や来賓の挨拶は本当に必要なのか。行事の円滑な進行で不要だと思っているけど、慣習的に外せないなどという本質的ではない思考がないのか。そんなことを考えられる機会になっていることは不幸中の幸いなのではないでしょうか。

いろんなものが不要不急で考えられているし、考えなければならない状況だから、不要不急なものが炙り出されている状況でもあります。それはモノだけ、コトだけに限らず、ヒトにも焦点が当たることも理解しなければならないのですが...

ダラダラと書いてて、なんだか寂しい気持ちにもなってきたのですが、あらゆる「前提」を疑う機会になっているのは確かです。だけど、同時に、こんな状態だからこそ、あえて助けになるような取り組みをしなければならないのだとも思うわけです。

不要不急、冷たい言葉として受け取るのではなく、温かい言葉として使えるようでありたい。少なくとも、ぼく自身はそうでありたいです。


ダラダラと不要不急な存在にならないようがんばります。


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