自分が世界の中心ではない。モブキャラだ。
世の中には大変な人がいる。ここでいう大変とは、「偉い」とか「素晴らしい」と賛美の言葉につながらない。大変「煩わしい」とか「面倒くさい」だったりと否定的な文脈で使いた区なる人のことを指す。
おそらく、これをお読みになっているみなさんの周りにも対応に困ってしまうオジさんやオバさんが存在することだろう。その人たちは得ていて「自分が世界の中心である」と勘違いしている傾向が強い。
なぜ、彼らはそのような認識を持つに至ったのだろうか。それに対応するにはどうしたらいいのかを考えたい。
どうも、おはよう!会えなかった時のために、こんにちは!こんばんは!おやすみなさい!えんどう @ryosuke_endo です。
大抵の人間はモブキャラである
世の大半はモブキャラである。
モブキャラとは、一昔前でいうと「ザコキャラ」と呼ばれていたものが派生したもので、群衆や背景などとして扱われるキャラクターのことを指す。たとえば、鬼滅の刃「無限列車編」で主人公たちが乗車する汽車に同乗している一般乗客や、ドラゴンボールにおける天下一武道会の観客などにあたる。
ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワンだとする歌詞を持つ曲が時代を彩ったこともあるが、ナンバーワンになれないだけでなくオンリーワンでもないモブキャラばかりが現実であり、そんな多くのモブキャラは評価されない。
世の中は大変に世知辛いのである。
そう、我々は主人公や準主人公にすらなれないモブキャラなのだ。少なくとも、僕はその自覚を持ち、日々を懸命にモブキャラとしての責務を全うするつもりである。心を燃やすモブキャラだ。ごめんなさい。
自身が世界の中心であると確信しているオジさんとオバさんは、どうも自身がモブキャラであると自覚できていない。自覚できていないどころか、いつの間にか自身が主役キャラであると勘違いしているのである。
なぜ、そのようなことになるのか。
おそらくだが、彼らは見えている世界が小さいのではないかと僕は見ている。
信じる"だけ"で確かめない
昭和のおじさんやおばさんは、自身の領域を拡充することや深掘りすることもせず、ひたすらに領域展開を繰り広げ、自身の攻撃が確実にあたる範囲内で強敵キャラを演じる。
そのため、自身が「信じる事柄」以外は認められないのではなく、あり得ないのだ。
キリスト教やイスラム教の信者が、それぞれ信ずる神を冒涜されたら怒ることは容易に想像しやすいだろう。なぜなら、彼らにとって信ずる対象を貶されることは何よりも失礼な行為、言動であるからだ。それを否定できない自分は神を信じる資格すら失ってしまうかも知れない。それはある種の恐怖心にも似た感情を抱くこととなる。
僕は宗教の自由を否定するつもりはないが、日本は無宗教の神学論者が多い国だと認識している。特定の宗教を信じはしないものの、時と場合によってつまみ食いをしながら、余興的にかいつまんで楽しんでいるのである。祭りごとが好きだからなのかも知れない。
しかし、僕は「信じる」だけで確認しないという姿勢は否定する。
信じるだけの姿勢は、考えることを放棄した姿勢である。考えることをやめたというのもそうだが、それ以上に考えることや確認することが面倒なのだろう。ただ、すがるだけの状態になってしまったともいえる。
そんな姿勢の前では、議論や話し合いなど不毛になるのは必然だが、昭和のおじさんおばさんは自身が信じる前提を崩さない。それを否定する者のほうが「おかしな人間」なのである。
バカの壁
他人に向けて「おかしな人間」であると断定することは大変に失礼なことだと僕は認識しているのだが、凝り固まったおじさんやおばさんは平然とそれをやってのける。
眠くなったら寝る、腹が減ったら食事する、尿意を催したらトイレに行く、といった生理現象よろしく、さも当然であるかの如く自身の価値観に相容れない存在がいた場合「おかしな人間」扱いするのである。
まさに『バカの壁』だ。
自身の認識する世界観以外に認識や世界が存在するなどあり得ない。それだと強く信じるものがある場合、それを否定する要素などあったところで受け入れない。いや、受け入れる隙などないのだ。
なぜなら、彼らは主人公だからだ。
モブキャラみたいな発言権もないうえに、主役キャラクターたちがやられた際には被害を受けてしまうような弱者ではなく、画面の中で躍動して世界を救う行動をするものの、モブキャラたちからは気づかれないヒーローなのだ。
違うのに。
我々は主役級ヒーローでなければ、準レギュラーですらない。たまに出てきては大切な発言を残す貴重なキャラクターでもなければ、序盤で退場することになるが、主人公たちに「心を燃やせ」などと言い残せる重要キャラでもない。
圧倒的なモブキャラなのである。
しかし、我々のようなモブキャラがいなければ主役級のキャラクターたちは活躍の場がない。そう、我々にも大切な役割は与えられているのである。
だからといって、それを認識せずに自身の認識が全て、世界の中心で自身の認識を叫び、他の意見や世界観を否定するだけでは何も変わらないことには気付いていたい。
いま、和暦は令和だ。昭和ではない。そして、主役はあなたではない。
ではでは。
えんどう
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