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そば処上州屋の経営権譲渡について

以前からちょこちょこ実家の飲食店については書いていましたし、いまさら隠すこともないと思っていましたので公言したのですが、ぼくの実家である飲食店の経営権譲渡について、昨日、ツイートしました。

この記事は、上のツイートを補足するものであるのと同時に、上州屋の後継者の問題について、当事者であるぼくの心情を書かせてもらおうと思いますし、同じく感じてきた後継者の方もいるのではないでしょうか。

1985年(昭和60年)に創業し、34年間、つまりはぼくと同じ年だけ経営してきたってことになりますが、店主や従業員の高齢化と後継者不在によって、事業の譲渡継承の手続きを今年の6月以降で行っておりました

その手続きがなんとか終わり、無事に譲渡が決まりましたので、そのご報告をさせていただきます。



銀座の名店で職人として働いてきた店主

店主は、ぼくの父親である遠藤秋光が勤めていたのですが、彼はいわゆる職人です。調理をするにも自分なりの進め方があり、弟子的な人を雇用したとしても、教えるなんてのは苦手でできません。「自分の背中を見て覚えろ」と言った具合に、決して人に教えるのが下手くそで不器用な人間でもあります。

彼が地元の工業高校を卒業し、18歳の春から東京の上州屋へ住み込みで働き始め、しばらく経ってから職人として独立した際には、銀座の名店と呼ばれるお店(利久庵というお店だったそうです。)で働くまでになっていたそうで、いわゆるプロのそば職人として腕を磨いていたわけです。

そこで住み込みで働く女性と出会い、それがぼくの母親となり、半ば強制的に新潟へ連れてきては店を開くことに付き合わせるのは、もう少し後のお話。

銀座のお店は名店と呼ばれるだけあり、1日の中で相当数のお客さんが訪れていたそうで、注文数が果てしなかったと聞いています。

昼の注文は調理場へアナウンスで永遠と思われるぐらいに、ずっと流れ続けており、同じ注文が二度繰り返されることはなかったそうです。一度注文内容をアナウンスしたら、それでおしまい。確認する術はありませんから、職人たちは記憶しておく他にありません。

その中で厨房で働く職人たちは、各持ち場の調理をしながら、それを記憶し、調理の順番を考え、実際に手順のに組み込んでいったそうです。

「そんなバカな…」と思っていたぼくですが、お店の手伝いをしていた際に、お客さんからの注文を受け、それがぼく以外のアルバイトなどとも重なるタイミングがあったのですが、「これは注文表を見にくるだろうな」とタカを括っていました。

すると、厨房に立つ父親がピタッと立ち止まり何やら考えている様子。数秒後には調理の手を動かし始めたのです。その出てくる順番は、調理の内容によって前後するものの、効率的に、料理が美味しく食べれるタイミングで出てきました。

後ほど確認してみると、彼はあの瞬間、同時になった注文内容に対し、調理の優先順位を決めていたのだと話したのです。なるほど、これが例の名店での経験から来るものか、と膝を打ったのをいまでも覚えています。

その彼が、味には特にこだわりを持ち、常に美味しいものを提供したいと朝は早くから、夜遅くまで仕事に取り組む姿を幼少時よりずっと見てきておりました。

実際、手前味噌ながら確かに美味しいのです。それは34年間も営業を継続できたという事実が物語っているのではないでしょうか。

地元のみなさんに本当にご愛顧いただいた

ぼくは幼少時、自分の名前ではなく、冷やかし半分で店の屋号で呼ばれる機会が多く、当初はそれが嫌でした。名前があるのに「上州屋」と呼ばれることに対しての嫌悪感を抱いていたのです。それはそうでしょう。

自分は自分であり、父親のやっている店の名前で呼ばれることが嬉しいわけではありません。

しかし、よく考えてみると、地元の小学校に通う当時の年代の小学生たちにも馴染んでいるぐらいだから、その親が通った機会があったり、常連さんだったりするわけです。つまりは、その地域にとっては「あって当然」と言えるお店になっていたのだな、と今になればすごいことだと実感できます。

移り変わりの早い飲食業界においても、新潟県燕市の片田舎で店舗を構え、34年間経営してくる中には経営的にも家族的にも大変な時期もありました。

今となっては、店主である父親と、女将さんである母親も60歳を超えてからは、それまで通りにお店を開けることが身体的にしんどくなってきたのもあり、お昼のみの営業としたり、出前は断り、店まで取りに来るテイクアウト方式に変換したり、といろいろと変化をさせている状態です。

それでもお昼になれば、また、土日になろうものなら、お客さんがたくさん足を運んでくださり、お店の駐車場はいっぱいになります。過去には並んでまでお店に入るのを待ってくれる方々もいましたが、店主は「申し訳ない」と帰ってもらうようにしていました。

お店に入れない状態のお客さんがいるのは、こちらの手際が悪かったりした結果だし、その待ってもらってる時間、お腹を空かせながら待ってもらうのは本当に申しわけがない。他のお店が空いてるだろうから、そっちにいってもらった方がいい、なんてことだと、それとなく聞いたのを覚えています。

別に待たせればいいのに、なんて思っていたのですが、確かにそうでもあるな、と納得したものです。

なんで後継ぎがいないのか

立場的に、ぼくは長男ですから、継承権の第一候補だったわけです。

幼少時から散々、お店の経営権を持っているわけでもない、まさに関係のない大人たちから冷やかされるように、長男だからという理由だけで「後継ぎ」と言われ続けましたが、そうはなりませんでした

上に書いてきた父親と母親の働く姿を見てきて、その中にある苦労や苦悩を共にしてきた家族として、それを見ていたからこそ、ぼくには後継ぎとなるだけの資格がないのだと実感するばかりでした。

資格がない、というよりも、それをやるには創業者を超えるだけの気概と計画性を持って、ドラスティックにやりきれるだけの覚悟がなければ、やってはいけない。中途半端な気持ちで「長男だから」などという理由でもなんでもない理由で後継者となるのは、ぼくの中ではあまりにも不自然であり、不格好であり、最悪の形での事業継承です。

それをするわけにはいきませんし、何よりも、ぼくはぼくとして、別の人生なわけですから、きちんと生きていけるんだと明示することこそが、継承しないことに対する何よりの贖罪とは言いませんが、ぼくにできる唯一のことなのかな、と思い、今日に至ります。

今後の経営について

事業の譲渡先は、地元の燕市で事業を営んでいる方にお譲りする形です。ただ、新しく法人格を取得し、運営会社は「株式会社上州屋」となります。

そして、事業の引き受け手である方の意向もあり、お店の味を変えずに運営を継続運営をしていきます。つまり、これまでの店主であった父親はこれからも厨房に立ち続け、「そば処上州屋」の味を提供し続ける形となることになりました。

経営権が変わることで、抜本的にお店の仕様であったり、味が変わることは多々あることですが、今回は譲渡先の配慮と、何よりも「そば処上州屋」のファンでいてくださった方への譲渡となったのもあり、現状体制のまま営業を続けていきます。

変わるのは、ぼくの父親は店主ではありませんし、お店のオーナーでもありません。オーナーが代わり、店主も変わります。ただこれまでの味を提供し続ける、その味を継承する仕事を続けていくのだそうです。

ゆくゆくは新たな店主に任せることになろうかとは思いますが、しばらくは現場に居続けられるとのこと。

運営権の交代時期などの詳細については、プレスリリースを作成しましたので、それをご確認いただければと思います。

新体制は2020年1月1日からとなりますので、2019年12月31日までは、これまで通りの運営主である遠藤秋光が執り行ってまいります

それ以降につきましても、年始以降は所々変更点など出てくるかもしれませんが、基本的には味も作り手も働き手も変わらず、営業を継続していきますので、引き続き、ご愛顧をいただきたく思います。

どうか、よろしくお願いします!




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