海

ベランダと水平線

ベランダで海を眺めていると溜息が出る。
太平洋も空も底抜けに青くて、その混じりけのなさが酷く退屈なんだ。
ベッドに横たわり、くだらない妄想に興じる。
もし、あの水平線まで大地が続いていたら。
こんな僻地にだってショッピングモールくらい建つかもしれない。
誰かが話題にしているスイーツ店や誰かの生活を彩るインテリアショップが軒を連ねて、昼夜を問わず賑わいを見せる。
きっとそこで新しい退屈に出会えるだろう。

夏休みが僕を何者でもなくしてしまう。
だから、海岸沿いの国道をスクーターで走る。
蝿の羽音みたいなエンジン音を背中に引きずって、いつまでも途切れない海を携えて。
今日の世界の果てはコンビニエンスストアだ。
個人商店に毛が生えたような家族経営の店舗。

「またスイカバー?」
アメリカの雑貨店主のような馴れ馴れしさで店員が話しかけてくる。
「こっちは種まで食えるんで」
店を出て、日陰を探して、探すのを諦める。
中途半端な位置に一本だけ立っている街灯にもたれてスイカバーを頬張った。
「忘れちゃうよね」
モップを片手に仕事している風の店員が近づいてくる。
店を空けて大丈夫かよ、と思ったけれど、店外も無人だった。
無造作に束ねたダークブラウンの髪と、ボタン1個分緩い制服。
都会の女性、なんて陳腐な言葉が浮かんだ。
「何をです?」
「スイカの味。スイカバー食べるとさ、本物の味忘れちゃわない?」
「忘れないですよ」
無謀なまでに広い駐車場とそれを取り囲む空き地にあらゆる夏の音がする。
だったら何なんだ。

何の工夫もなく来た道を帰る。
汗まみれのシャツが風を受けて急速に冷えていく。
暑さと涼しさの境界はスピードに委ねられているから、アクセルを少し回した。
ユミさんは東京からの出戻りで、実家のコンビニを手伝っている。
歳は20代半ば。
訊いてもいないのに、母親が教えてくれた。
それ以上は知らない。
ときどき、近所の砂浜に軽自動車でやってきてビニールシートを広げ読書している。
何の本だろう。ベランダからでは窺い知れない。
いつの間にか昼寝をしていることもある。
僕はクーラーの効いた部屋の中。
青まみれの景色に小さな赤いパラソルがちょっとだけ愉快だった。

「今日はスイカバーじゃないの」
7月の終わり。
ユミさんの肌はずいぶん日焼けしていた。
この土地の太陽に焼かれても、いつもの調子は変わらない。
「さっき本物の方、食べたんで」
「ちゃんと種は吐き出した?」
ただ、都会の女性って感じは薄れたように感じる。
「たまに砂浜で本読んでますよね」
「あ、見られてた?」
驚いた様子なく応える。
「何読んでるんですか」
「殺せんせー。全巻読むチャンスかと思って」
何がチャンスなのかよく分からない。
もっとも、チャンスなんてよく分かった例しがないけれど。

そうやって僕の意見など聞かず勝手に夏は過ぎて行くし、勝手に肌は焼けていく。

8月。
いつものように海を眺めていた。
窓が切り取る景色は変化がなく、監視する必要なんてないけれど。
僕はスーパーマリオみたいに、まばらに浮かぶ雲から雲へ飛び移って遠くに行こうとする。
コインはいらない。
国道の奥から見覚えのある軽自動車が近づいてきて、我が家の前で停車した。クラクションの音。
ウィンドウが開いてユミさんが助手席から顔を出す。
髪を解いた姿を初めて見た。それだけで別人のようだ。
慌てて階段を駆け下りると彼女は車から降りて待っていた。
「これあげるよ」
間近で見るといつもより顔立ちが立体的で、鼻頭の汗が作り物のように思える。
紙袋の中には大量の漫画本。
「どうしたんですか、これ」
「帰るのに荷物になるからさ。読まない?」
「えっ、来たばかりじゃないですか」
返事より驚き、驚きより怒りに近い感情を咄嗟に返してしまう。
実家に戻って云々って話は何だったんだ。
「そうかなあ。言っても、もう3週間もいるよ」
ユミさんはいつもの調子で。
「漫画読み終わったからですか」
だから僕もいつもの調子に戻る。
「ははは、まさか。わたし大学でさ、エーケン入ってんの」
「大学?」
「なんかヘン? これでも勉強頑張ったんだよ、君くらいの時は」
なんだか話が噛み合っていない気がして、母親から聞いた話をぶつけてみる。
「なにそれ、ウケる。やっぱり田舎って怖いなあ」
しばらく笑い転げて彼女は言った。
「デタラメなんですか」
「今年成人したばっかりなんだけど。ショックだわー」
「コンビニは?」
「帰省のついでに手伝わされてたの。人手不足だって。お客も不足してたけどね」
運転席の母親に促されて、ユミさんは席に戻る。
「じゃ、そういうわけで。またね」
遠のいていく軽自動車のバックウィンドウからパラソルの赤がちらついていた。

僕の意見など聞かず勝手に夏は過ぎて行く。
そして大概の人間も勝手に生きている。
スイカの種を飲み込んだって、誰も怒りはしないだろう。
ベランダから眺める景色は相変わらずで、海が世界を半分にしている、と思った。
もし、あの水平線まで大地が続いていたら。
海の見えない道を延々とスクーターで走るよ。

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