教育機関の中で、子どものもつ自由と責任とは

久しぶりの投稿になってしまいました・・・。

今後研究していきたいことを踏まえてとりあえず今の自分の意見を書き殴ります。まだ意見的には浅いです、メモ程度に。

■「自由には責任が伴います」

 私が学生時代から大人になるまで、多くの人が、自由という言葉に責任がついてくると話しました。(あまり自分の親に言われたことはなかったです。)

 この言葉はどこから来ているのでしょう。この根拠は誰の考え方なのでしょう。当たり前の様に言われる言葉の根拠もわからずに使っていないでしょうか。そう感じました。

私はルソーの「社会契約論」の視点から、「責任」とは社会との約束(契約)なのかと考えます。「殴られたくないでしょ?私も同じ(一般意志)私はあなたを殴らない。だからあなたも殴らないでください。(契約)」一般意志は法律の事項に繋がっていくので、自由の振る舞いが互いの(一般意志)契約に反した時、司法によって罰せられます。

「自由」JSミルは自由論の中で、自由は努力しないと維持できない。自由であるから、様々な人が居り、不自由であれば天才も生まれないと書いています。周知のことですが、日本国憲法の中に国民の自由が保障されていますから、私たちは国内においてこの権利を持っています。

■子どもの自由

学習を中心とした学校教育内での自由はあるのでしょうか、

・課題の中での表現思考のある程度の自由

・個人の完全な自由時間は1日1時間程度

・学級活動でのクラス運営(担任により変わるが子供が主体的に活動している)

不自由さとしては

・教員が決めるカリキュラム。

・授業中は集団教育のため黙って聞く。(教科によって差はでる)

・興味のない課題に対しても、教室からでて行くことは自由にはできない。(体調不良等の理由があれば退出可能だが、基本は教室に居る)

 文科省は学習指導要領で「主体性」という言葉を多く使いますが、自分で選択する自由が少なければこの「主体性」とは無い様なものです。課題の中でいかに「主体的」に参加できるか、という評価を行いますが、そういった教育は、与えられた課題に対しては主体的に活動できるかもしれません。しかし、誰かに与えられなければ何をしていいかわからないという状況に陥ります。

■保護と自由のバランス

 教育の中には保護という点も重要です。子供が傷つかない(身体的にも精神的にも)様に先立って抑止します。今の教育機関はこの保護の部分が重要視されているのです。発達段階において、保護しなければならないという点は大いに理解できます。また、施設の人口密度についても保護が関係していきます。施設の大きさと子供の人数によっては、環境から集団への強い監視と保護が必要になります。

 そして、子供の自由を奪う分、大人は監視や強要を強めなければなりません。「静かにしなさい。」「今はこの〇〇をしなさい。」

もしかすると、不自由さを強いられる子供にとって大人の保護のもとに、そこまで大きな責任もないのかもしれないとも思います。「自由には責任が伴う」という言葉は、現在の学校教育では「責任を取るのは嫌でしょ?じゃあ不自由さも我慢しなさい」といった様に聞こえてくるのです。

 私も現場の教員として、子どもの様々な自由を保護という名の下に奪っているところがあると実感しています。この自由をどの様に扱い、どこまでの保護をしていくのかを具体的に考えていくと、子どもが自分の時間を持って自由と責任を実感し生活していけるのではないかと考えています。



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