学問をすすめて

学問を進めていくと、自己否定に陥る。私は今教育に関連した現在の様々な制度について学習しているが、知れば知るほど自分の現在の行動が、私の思う理想とかけ離れており、馬鹿馬鹿しく陳腐で、本当に酷く悲しい。

だけどこれを捨ててそれをひっくり返すにはまだ勇気も力もない。劇的ではなく、ひたひたと日常を大切にひっくり返していきたいとは思っている。

よく鈍感力をつけた方がいいと言うが

人間関係には鈍感力が必要だ。鈍感でいいと思う。

しかし、学問においては、鈍感力ではなく、敏感でなければならない。鈍化では多くを失う。

時代や社会は流動的で常に変化している。学問の真理は絶対ではない。時代や社会によって回答が変わるのだ。既存の学問も同じである。

学習者は敏感に本や社会、研究、時代、文化を感じとる必要があるし、それが本当に楽しいのだ。

正解なんてないのだ。その正解によって傷つくことがあるなら、それは投げ捨てて欲しい。それは、その時代の偶然や一部の権力者の都合からポッと出たもの。世の中に正解もなければ間違いもない。関係性でしかない。

ただ、長く積み重ねられた文章には、多少の信頼がある。そしてその文章や研究を読んで、私たちの日常は特大パンチを喰らい、どの姿勢をしたらいいのか迷う。

迷いながら時代と対話をして一応の結論を出す。社会はそんな感じなのだろうと思う。学問をすすめ続けることこそが流れる社会の中を乗りこなすことができるのではないか。

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