主体的な学習とは

 学習指導要領に挙げられている「主体的な学び」というのはどういうものなのか、定義が曖昧なまま、取り組んでいたと思います。(こんな教員ですんません汗)桐蔭学園の理事長 溝上慎一さんの 主体的な学習とは-そもそも論から「主体的・対話的で深い学び」まで-  を読んでまとめていきます。

http://smizok.net

まずなぜ主体的な学びが必要なのか、こんなに主体的、主体的言われているのはどうしてか。
・新学習指導要領を作るにあたり議論に出てきたのは、現代、知識・情報・技術をめぐる変化の 早さが加速度的である。情報化やグローバル化といった社会的変化が、 人間の予測を超えて進展するようなっている。

しかし人間は、感性を豊かに働かせながら、どのような未来を創っていくのか、どのように社会 や人生をよりよいものにしていくのかという目的を自ら考え出すことができる。多様な文脈が複雑に入り交じった環境の中でも、 場面や状況を理解して自ら目的を設定し、その目的に応じて必要な情報を見いだし、情報を基に深く理解して自分の考えをまとめたり、相手にふさわしい表現を工夫したり、答えのない課題に対して、多様な他者と協働しながら目的に応じた納得解を見いだしたりすることができるという強みを持っている。

このために必要な力を成長の中で育んでいるのが、人間の学習 である。...新たな価値を生み出していくために必要な力を身に付 け、子供たち一人一人が、予測できない変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して 、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となっていけるようにすることが重要である。

参考新しい学習指導要領の考え方 thttps://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/__icsFiles/afieldfile/2017/09/28/1396716_1.pdf

との議論があり、社会と幸福な人生を創ることに主体的に関われる次世代の人たちを育てたいということらしい。

溝上さんの論文から主体的とは子供が課題(人生の課題でもある)に対して、自ら働きかける行為という定義になり、(働きかける先に客体が存在する。)主体的な学習というのはアクティブラーニングよりも大きな概念であるとあった。(よく書かれているのはアクティブラーニングの中に主体的で対話的な…が包括されているように書かれているので)

主体性とは 

では、主体性の定義は何なのか、

「行為者(主体)から対象(客体)へとすすんで働きかけるさま」

なので、学習者(主体)だけでは成り立たず、課題や計画、自身の人生等(客体)に働きかける関係において主体性がある、ないと言えます。

学習指導要領が定義付ける主体的な学びとは、「学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連づけながら、見通しを持って粘り強く取り組み、自己の学習活動をふり返って次に繋げる学び。」になっています。

主体性とはどのような姿があるのか。

■主体的な学習スペクトラム

1 課題依存型の主体的学習 学習者は用意された課題に対して活動に取組む。学習が与えられたり、課せられたりしこれをこなす。課題を与える授業の雰囲気や与えられる課題の質(おもしろさなど)に促されて、学習者は課題(客体)に主体的に活動していく。課題に促されて「主体的」が発現する力学は客体依存的であり、ひいては「課題依存的」と呼べるものである。題依存的な主体的学習は「主体的な学習」だといいながらも、やはり課題依存の受動性を露呈する。また、学習課題を課すとき、教師は生徒学生の興味・関心を引くものを精いっぱい工夫して提供しなければならない。(導入や板書を工夫するなど)学校教育はほぼこの課題依存型の主体的学習で学習を進めている。課題は用意されて当たり前だし、それが楽しくなければ主体性も下がっていく。

2自己調整型の主体的学習 自己調整型の主体的学習とは、学習目標(「毎日単語を10個覚えよう」「難しい問題でもあきらめずに取り組もう」など)や学習方略(「声を出して単語を覚える」「難しい問題は後回しにして、易しい問題から解答する」など)、メタ認知(「自分の考えの矛盾に気づく」「課題によって学習方略を使い分ける」など)を用いて、自身(自己)を方向づけたり調整したりして課題に取り組む学習を指す。自己調整型の主体的学習は、(他の生徒学生とは異なる)自身の学習目標を設定したり、自身の学習方略を使用したりして課題に取り組むものであるから、そこにまず自他分別の強意が働いていることを認めることができる。(自分ごととして捉えることができる)学習目標にしたがって、あるいは学習方略を使用して、自分で自分(自己)の学習を調整する。自己調整型の主体的学習には、自己が自己たり得るときの自他分別と再帰が学習で働いているといえる。

3人生型の主体的 梶田(1996)は、サルトルをふまえて、学習を即自的なものから対自的なものへとしていくことで、人間としての深い育ち、成長発達に至ると主張する。「即自的」とは、自分自身の存在(あること)に対する気づきや反省を欠いた、ただ自身があるという存在のしかたを指す。これに対して「対自的」とは、自分自身の存在に気づき、自分自身と対話し、ときには自分自身に背くような反省的な存在のしかたである。梶田は、「即自的」「対自的」の観点を用いて、次のように教育を通しての子どもの深い育ち、人間としての成長・発達を論じる。「学校での勉強は大事なことであるが、それはその人が利用することのできる「道具」を身につけていくことに他ならない。知識も技能も、その意味での「道具」でしかないのである。高度で複雑な知識や技能を身につけていくことは、現代社会で自分の役割を果たしていく上でも、自分の人生を豊かなものにしていく上でも不可欠のことである。しかし「道具」を適時適切に使いこなしていくためには、その人自身が賢くなくてはならない。「道具」が身につくこと以上に、その「道具」を使う「主体」が育つということが重要な意味をもつのは、このためである。」(梶田, 1996, p.4)「教育のあり方としていえば、知識・理解・技能を身につけていくだけでは即自的な育ちでしかない。これらを身につけていくと同時に、自己認識・自己対話・自己統制といった対自的な力が育っていってはじめて、人間としての成長・発達といえるのである。・・・(中略)・・・対自性を抜きにしたままどのように強力な力を獲得したとしても、それは強力な「道具」を手に入れたというだけであって、人間そのものとして成長・発達したとはいえないのである。」(梶田, 1996, pp.18-19)梶田はこの論のなかで、「人間としての「主体」のあり方を<自己>と呼ぶことがあるのは、そこにこうした対自性をはらまざるをえないからである」(梶田, 1996, p.18)と述べる。とどのつまり、梶田にとっての「即自的-対自的」の観点は、主体的な学習を自己の観点から理解するものである。 

 本ページの主張に重ねれば、要は、ただ主体的な学習であれば、どんなものでもいいというわけではない。課題依存型は「即自的」であるし、自己調整型でも自他分別に関する働きは「即自的」である。これらは、梶田にいわせれば、道具を身につけただけのことである。学習が生徒学生の深い育ち、人間としての成長・発達に至るには、「対自的」な働きを学習に加えなければならない。それは、自己調整型あるいは人生型における再帰の働きに相等しい。

なるほど、この3点の主体性の視点はすごくわかりやすかったし、これらを踏まえて学習プログラムを組むと闇雲に主体的な活動ということはなくなるのかなと感じました。また人生型の主体性については、論文をそのまま抜粋して貼ってるだけです…サルトルが出てきて難しく、ざっくりキャリア教育ということは理解しましたが…文章全くもってまとまらず(だって切り貼りだもの)理解も浅いのですが、今回はこれでまとめとします。

参考
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/newcs/__icsFiles/afieldfile/2017/09/28/1396716_1.pdf

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