社会契約論をかじってエッセイ

 教育に携わると、「この子(人)をどんな人間に育てたい、導きたいのか」というところを考える(ただこの考え方は横柄であるので、最近はちょっと先に生まれた人間として子どもの側に居ることが正解かなと思っている、なぜなら私に彼らを導く、育てる力があるとは思えないから)。

学習指導要領では「生きる力」をスローガン?に掲げている。生きていくために必要な力。

 ルソーは「社会契約論」の中で人間の最初のおきては「自己保存をはかること」(殺されない、死なない)と書いている。そしてこの「社会契約論」は、私たち一人一人が社会に自己の権利を預け、かつその権利を私たちが皆でもつことで、互いに死なない社会を約束する。

その社会に生まれたからには、自己保存(生き続ける=死なない)を約束する。引き換えに社会(自分たちも含めた集団)からの約束を守らなければならない。

現代はその社会の契約の元、自己保存が徹底されている。医療の進歩もあり・・・私自身は健康に生きながらえたいと強く前向きに考えるタイプの人間なので「死にたい」と感じている人を助けたい(生きることが正しいと思うから)と思う大多数の考え方である。

しかし、その「生きなさい」という社会からの意思は、一見個人を尊重(死なせないために)してるかのように見えて実は「社会のために」「生きなさい」ということなのではないか。

私たちは「社会のために生きる」ことを生まれる前から契約され、さらに「社会」によって生かされているのではないかと感じる。

そして社会は、そのことを知らずに、気がつかずに(少なくとも私はそう)日々「働き(勤労の義務)」続ける私たちを監視するのである。

どちらかというと、この監視という部分が、私たちにとって重い責任や圧力になっているのではないか。

働き続けなければならない、生き続けなければならない、毎日学校へいかなければらない、生産し続けなければならない。

これらは社会の欲望ではないかとも考える。(規律正しい学校生活は子供自身も教員や保護者、地域の人たちを喜ばせるし、国家の生産が安定していることは、国民のいっそう豊かな生活に力を貸している。)そしてその責任や重圧を負った私たちは、どうやら明日の社会の欲望の期待に応えようと努力する。しかし期待に答えられずに死を選択することもあるのかもしれない。また、死すら与えられず絶望に苦しむ人々もいるかもしれない。

お互いを殺さないためにある社会・規範は実は私たちを束縛しているのかもしれない。(生きる力とは、この束縛の海を泳ぐ力なのか)

しかし、かといってこのシステムをすぐに停止することもできない。

なので実践として私が思うことは

明日休んでいい。何ならちょっと長く休んでも平気、誰かが怒っているような感じや、

自分は規則を守れていないような気になるけど何より大事なのは自分自身なので、社会の欲望に律儀に従わなくても明日は来るよということ。

それが簡単でない場合は、一緒に共犯、同調してくれる味方に電話して、その時間を一緒に過ごしてもらうといい。

自責の念は自分では拭えきれない場合は、協力者をもつといい。

また社会的規範を守っていないからといって、責めてはならないと考える。 


「生きる力」というスローガンは教員になる前の私にとってとても魅力的だった。

しかし、「個人」が心身ともに自由に選択して過ごせる場所の方が、今は魅力的に感じる。「生きる力」をスローガンに掲げて、この束縛の海を強く泳ぐ力を手にしなければいけないことよりも。(ちょっとこの辺は不勉強なので、反論になっていないかもしれないが・・・)

生きる力の反義語は生きられない力、それを育めなけれ死んでしまうのか、安易な反駁だが。その反駁から、それらを手に入れられなかった人は力のない弱者のようにも捉えられる。

 社会契約論をかじって、学習指導要領の「生きる力」に照らし合わせて感想程度に思ったことをつらつらと書いてみた。

 あとまた、教育を論じる上でルソーをかなり前向きに、それが輝かしい指針であるようにいう人が多くいる。しかし、その人たちのブログやその人の本を読むより、やはり自分で読んでみないと的を得れない。そしてルソーは18世紀の読み物であることも同時に頭に入れる。学習指導要領を読むとルソーの教育論が影響を与えているのはわかる気がする。(そこもまたまとめなくては!!)現代に至るまでにさらに書物は重なり、いつの時点での思想がこの国の教育を支えているか、それは現代に果たして合っているのかをよく探求していきたい。

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