「国家」プラトン著ー1巻

以前に頭の良い哲学者(現代の)の集まりで、プラトンについての回があり、プラトンの「国家」読みやすいし読んでおいた方が良いよーってなって、その時は意気込んだものの読みきれず。。。GWなのでどっぷり読むことにしました。少しずつ要約をしていこうと思います。

「国家」プラトン著 藤沢令夫訳は、主役ソクラテス(古代ギリシア人の哲学者)に対して弟子やその場に居合わせた若者たちがソクラテスからの問いを通して、正義や善き人、善き国家について思考していく対話集です。全10巻。

<時代・場面設定> 紀元前430年-紀元前421年頃、アテナイの外港ペイライエウスにてお祭りがはじめて催されるということで、参拝・見物に来たソクラテスとグラウコン。終わってアテナイに帰ろうとすると、ポレマルコス、アデイマントスらに呼び止められ、ポレマルコスの家へ。ソクラテスは、家長のケパロスに挨拶し、老いや富についての会話を交わす。その過程で出てきた「正しさ」を巡り、ポレマルコス、トラシュマコス、クレイトポンを巻き込んだ問答が展開されていく。

上記Wikipediaにて引用 国家

■1巻

 主役ソクラテス、老人ケパロス、ケパロスの息子ポレマルコス、血気盛んな若者?トラシュマコスが登場する。

●<正しさ>(正義)についての規定ー年長者ケパロスとの老年の話からー

 〈富についての話は省略する〉ケパロスは老いから、ーこの世で不正をおかした者はあの世で罰を受けなければならないーというハデス(冥界)の物語に対して、若い時はなんでもなかったが年老いたせいか死への恐れから、これまで誰かに不正をおかしたことがあったかどうかを考えてしまうという話をソクラテスに話す。

不本意ながら誰かを欺いたり嘘をついたりしないとか、また、神に対してお供えものをすべきものをしないままで、あるいは人に対して金を借りたままでビクビクしながらあの世へ去ると言ったことのないようにすることが、死後罰を受けずに済むのではないかと悟る。そしてその中でお金の所有が最大の価値を持つ、富は理をわきまえる者にとって最大の高揚をもつ。

ソクラテスはケパロスの話を聞いて、「不正をしない」とは「正しい人(正しさ)<正義>」となるが、ケパロスの言う正しさとは「正直な態度(何かを預かった場合にはそれを返すこと)」に聞こえるが、果たしてそうだろうか。

「友人から武器を預かったとする、その時は正気だった友人があとで気が狂った。狂ってから返してくれと言ったとする。ーこの様な場合、そんなものは返してはならないし、またそれを返す者、さらにはその様な状態にある人に向かって本当のことを何もかも話そうとする者もけっして<正しい人>とは言えない

『本当のことを語り、あずかったものを返す』ということは<正しさ>(正義)の規定としては通用しない。ことになる。

ケパロスは神に御供物をあげるために退席・・・変わってポレマルコスとの対話になる。

●ポレマルコスとの対話ー正義とは何か、正義の人とは、正義の有用性とは、

 *ポレマルコスはケパロスの議論を引継ぎ、詩人シモニデスのことばを借りて正義とは『それぞれの人に借りているものを返すのが正しいことだ』と話す。人は本来、自分の友に対して、何か善いことをして、悪いことはけっしてしないということを”借りとして負う”という。

ソクラテスはポレマルコスとのやりとりから、<正義>とはそれぞれの相手に本来ふさわしいものを返し与えるのが正しいと仮定する。正義と呼ばれてしかるべきものは、そもそも何に対して何を与える技術のことかと問いを投げかけ、*ポレマルコス友と敵に対して、利益と害悪を与える技術だということになる。と答える。友には善いことをなし、敵には悪いことをなすのが正義に他ならない。と話す。

 次に*ソクラテス正義の人とはどうだろう問いかける。どの様なことがなされる場合にどの様な働きに関して、友を利し敵を害する能力を発揮するだろう。*ポレマルコス戦いにおいて相手を攻撃する場合、味方と協力する場合だ。と話す。*ソクラテスは、では戦っていない人々には正義の人は無用であるということにもなるだろうかと問いかけ、正義の有用性に議論は移っていく。

 *ポレマルコスは戦っていない(平和)時にも正義は有用かというソクラテスの問いに対して有用であると答え、では、一体何を使用したり獲得したりすることに関してかという問いに対して、契約(一緒に組んで何かをすること)に関してと答える。*ソクラテスは何を一緒に組んでことをなす時に正義の人は優れているのかと問う。*ポレマルコスはお金を預けたり保管したりしなければいけない時と話す。*ソクラテスはつまり、正義とはお金が不用(保管されている状態)のときにこそ初めてそれのために有用(守るため)であるというわけだね。と話す。そして正義とはそれぞれのものの使用にあたっては無用、不用にあたっては有用なものというわけだ。と話すまた、対話は続き、*ポレマルコスは正義とは友を利し敵を害することである。と改めて定義づける。*ソクラテスは人々は”善い人間”の判断を誤ることがありえる(判断を誤った人たちにとって善い人間は敵であり、悪い人間が友である)と話し、判断を誤った場合友に対しては害を与え、敵に対しては益をなす事が正義ということになり、最初の仮説とは正反対の結果になる。

*ソクラテスはそもそも正しい人間でもたとえ相手が悪い人間であるにせよ人を害するという事がありうるのかと問う。また正しい人間は自分が身に着ける<正義>によって人を不正なものにできるのだろうか、善き人間はその善さによって人を悪い人間にすることができるだろうか。*ポレマルコスはできないと話す。

『それぞれの相手に借りているものを返すのが、正しいことだ』と主張する人がいて、その主張の意味が、正しい人間は敵に対しては害をなし、友に対しては益をなすことを<借り>と義務付けられているということは、人を害するということはけっして正しいことではないのでこの言葉は真実ではないと言えることを結論づけた。

●トラシュマコスとの対話①ー正しいこととは、強い者の利益である

*トラシュマコスはソクラテスとポレマルコスの議論を聞いて<正しいこと>とは、強い者の利益にほかならないと定義する。なぜならば、国で権力を握る支配者、支配階級の人々が自分の利益に合わせて法律を制定する。民主制ならば(民衆が支配しているため)民衆中心の法律を制定する。独裁僭主(君主制)ならば独裁僭主中心の法律を制定し、他の政治形態の場合もこれと同様である。自分たちの利益になることこそが被支配者にとって<正しいこと>である。

*ソクラテスはトラシュマコスの話を聞いて、利益になることが正しいこと。その利益とは強い者の利益であることを確認し、また支配者は時に判断を誤ることもあるだろう。と対話を進め、以下の2点をさらに確認した。支配者たちは、被支配者たちに対して何かを命じる際に自分たちにとって最善であるかを見損なうことがあること。また被支配者の命じることならなんでも行うのが正しいこと。

*トラシュマコスは、支配者が誤ることがある部分を撤回し、けっして誤ることはない支配者が法として課すのは、自分にとって最善の事柄であり、それを行うのが被支配者のつとめだと改めて定義した。

*ソクラテスは『支配者』や『強い者』においても厳密な定義を求め、いくつかの場合に当てはめて考察していく。具体的な技術内容についても言及していく。

厳密な意味での医者について 金を儲けることを仕事とするのではなく病人の世話をすることを仕事にする者である。

厳密な意味での船長について ただの船乗りではなく、船乗りたちの支配者である。(技術をもち船乗りたちを支配するのだから)

それぞれの利益になることを追求し、実現するためにある。

では、技術についてはどうだろう、医者の技術は、怪我をした人、病気をした人(身体に欠陥がある場合)を直す(身体にとっての利益)為の技術である。そもそも技術とは、その技術がはたらきかける対象にとって利益になること以外にはない。けっして強い者の利益になる事柄を考えてそれを命じるのではなく、弱い者の、つまり自分が支配する相手の利益になる事柄を考えてそれを命じる。

支配される側のもの、働きかける対象であるものの利益になる事柄をこそ考察し命令するのだ。

ここで最初の仮説<正しいこと>とは、強い者の利益にほかならないが逆転する。

*ソクラテスは「正義とは強者の利点だ」というトラシュマコスには賛成しかねると話たものの、この点についてはまた考えてみる機会があるだろう。と書いており、またさらに議論を展開していく。

●トラシュマコスとの対話②ー不正な人間の生活は正しい人にまさる(得である)

議論中に<正しいこと>と<正義>に対をなして出てきたのが<不正なこと>と<不正>である。*ソクラテスはトラシュマコスがいった「不正な人間の生活は正しい人間の生活にまさる」という命題に対して反駁していく。

*ソクラテスとトラシュマコスは<正義>を徳(優秀性)と、<不正>を悪徳(劣悪性)を定義する。

*ソクラテスは A正しい人は、自分と相似た人に対して、分をおかして(必要以上にしゃしゃり出て)相手をしのごう(相手に対して勝とう)とせず、相似ない人をしのごうとするが 不正な人は、自分と相似た人に対しても分をおかして相手をしのごうとする。

*ソクラテスはトラシュマコスが話をした<不正な人>の条件から、不正な人は知恵があって優れた人間であり、正しい人はそのどちらでもないと仮定する。この命題に対して、いくつかの具体例を当てはめてみる。

・音楽の心得のある人は、楽器の調律をする時、音楽の心得のある人の分までしゃしゃり出て調律はしない、しかし音楽の心得のない人に対しては、教えたりすることがあるだろう。

・医者の場合は、処方した内容に関して、同じく医者の心得のある人に関してはそれ以上に何かいうことはないが、医学の心得のない人には教えるだろう。

知恵のある、優れた人は、自分と相似た人に対しては、分をおかして相手より多くのことをしようとしないが、自分と相似ぬ反対の性格の人に対しては、そうしようということになる。

ソクラテスはAの仮説から

正しい人間は知恵のある、優れた人であり、不正な人間は無知で劣悪な人であることを証明した。

また、<正義>は徳(優秀性)であり知恵であること、<不正>は悪徳(劣悪性)であり無知であることを定義する。

*ソクラテスは問題を国家に置き換えて、さらに<不正>が<正義>にまさるのかを考察していく。

*ソクラテスは、トラシュマコスの説によるならば、最も優れた国家とは、最も完全に不正な国家である。しかし他の国より協力になる国という者は正義の助けをなしにその力をもちうるだろうか、それとも必ず正義の助けを必要とするだろうか。

*トラシュマコスは、正義が知恵であるとするならば、正義の助けを必要とするだろうし、自分の説の通りだとすれば不正の助けを必要とする。と話す。

*ソクラテスは、共同で何か悪事をたくらむ場合に、もし仲間同士で不正をはたらき合うとしたら、目的を果たすことができるだろうか、と問う。*トラシュマコスはできないと答える。

*ソクラテスは、<不正>はお互いの間に不和と憎しみと戦いを作り出し、<正義>は協調と友愛を作り出すものだからと話す。それは、一人の人間の内に宿った場合も同じである。自分自身との内的な不和・不一致のために、事を行うことを不可能にさせ、さらに自分自身に対しても正しいものに対しても敵たらしめるのだ。とはなす。ここで話題は<はたらき>機能に移っていく。

*ソクラテスは、<はたらき>とは、『ただそれだけが果たしうるような、あるいは、他の何よりもそれが最も善く果たしうるような仕事』である。それに対して(優秀性)<徳>があるのではないか。と話す。

例えば

・目のはたらきに対して<徳>(優秀性)というものがある。(よく見える等)

・耳のはたらきに対して<徳>(優秀性)というものがある(よく聞こえる等)

自分固有の<徳>(優秀性)によってこそ、みずからの<はたらき>を立派に果たし、逆に<悪徳>(劣悪性)によって、拙劣に果たすのではないか。

では「」にはどんな<はたらき>があるだろうか。それは、配慮すること、支配すること、思案すること、生きることではないか。また、魂には徳というものがあるのか。*トラシュマコスはあると主張する。

*ソクラテスは、魂はその固有の<徳>を欠くとしたら、果たして自己本来の<はたらき>を善く成し遂げるだろうか、それともそういうことは不可能だろうか。

*トラシュマコスは不可能だと答える。

*<正義>は魂の徳(優秀性)であり<不正>は悪徳の(劣悪性)である。そうすると、正しい魂や正しい人間は善く生き、不正な人間は劣悪に生きるということになる。正しい人は幸福であり、不正な人はみじめであると言える。

*ソクラテスは<不正>が<正義>より得になることは絶対にない。と結論づけた。

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 ソクラテスの対話では、対話相手と文章や言葉について繰り返し定義を確認したり、互いに同意したりするシーンが出てきます。自分たちが話している事柄は何であるかを都度確認することで共通理解を図り、詰めていきたい事柄は両者の中で曖昧さや相違ないように議論が進んでいきます。

 また一つの抽象的な事柄に対して、具体的にいくつか当てはめて検討していき、抽象的な事柄はより的確な意味合いに洗練されていきます。

 テーマは「正義」論ですが、正義という内容もさることながら、それを追求するにあたり、多くの条件をぶつけて対話を進め、最初の仮説は条件に合うのかどうかをかなり多面的(どのような方法があるのかはまとめてみたい)に確認していくところがとても面白いと感じました。

とりあえずこんなもんで1巻はひとまず終えてみます。

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