「学校についてみんなで語る場」-9月28日アーカイブ−#「学校での出来事について」

議論について、主題に添ったり派生した問題が現れたりと流動的な部分があります。目指すところは結論や方法を見つけることではなく互いがどう捉えているかを認知するところにあると考えます。

議題「雑巾がけ」に対して、なぜ手で床を拭かなければならないのか、また学校教育の中で未だに習慣とされている「雑巾がけ」には何か根拠があるのか。

※アーカイブでは名前を伏せていきます。参加者はA B C…として、立場の名前は付けますが、必要のない時は付けません。

<登場人物>  A(保護者)B(私塾関係者) C(教員)

A(保護者)息子が学校で雑巾掛けについて疑問を投げかけてきた、通っている学校では未だに雑巾掛けをする習慣がある。手で床を拭く雑巾掛けに意味があるのか、モップ等じゃダメなのか、予算の問題意外で理由はあるだろうか。

B(私塾関係者)雑巾掛けは「悪い習慣」でしかない。想像(偏見)だが、手で床を拭く雑巾掛けは、寺で僧侶がやるように、精神性を鍛えるような意図があるように思う。それ以外の理由が見当たらない。仮に「精神性をアナログな掃除で鍛える」という理由のみならば、馬鹿げている。合理的な理由があるならば聞きたいが、多分ないように思う。

昔、居残り掃除の一環として「素手雑巾掛け3往復」のような習慣があったのをぼんやり覚えている。半ば「罰」の効果もあるというところが「精神性を鍛える」ことを説明しているように思う。しかし、そんなことでは精神性は鍛えられないし、無意味な習慣だと思う。また、「精神性を鍛える」ために行われる習慣と「体罰」は地続きではないか。

A bに対して 自分もbの言うようなイメージがある。息子が小学校に入学してから自分が子供の頃に行われていたことが続いている。20年以上同じことを続けていることに多々悩まされる。精神論で物事を考えてしまうと、必ず体罰と隣り合わせだと同意する。「雑巾がけ」に関して通っている学校の管理職に話したところ明確な回答がなかった。唯一言っていたのは「昔からやっている」とのことだ。

C aに対して 図工を指導しているので、汚してしまったところを床でも雑巾で拭いてもらうことがる。また、最近自分の学校では軽いモップ(クイックルワイパー)を使って拭いている。雑巾がけという格好に美徳をもっているとすれば危険である。しかし、自分は子供のころに雑巾がけに気持ちよさを覚えた。また、そう感じている教員もいるのではないかと思う。掃除に関しては学習指導要領には「清掃などの当番活動や係活動東京の自己の役割を自覚して協働することの意義を理解し、社会の一員として役割を果たすために必要となることについて主体的に考えて行動すること」と記載されている。「清掃指導をしなさい」とは書いていない。この文言に掃除と書いてあるのも日本の昔からの習慣なのかと感じる。正直体罰的なものに対して私たち教員は疎いところがある。
保護者の方からのご指摘が学校が考える(昔からやっているという、根拠のなさ)きっかけになると良い。また、精神論について、やはり自分のような「過去自分が雑巾掛けをすることで清々しい気持ちになった」人たちが、「子供たちにもこの気持ちを」という、ど精神論のもと行われているところは十分にあると思います。また、習慣から「それをすべきだ」と考える人たちもいるのだと思います。

B cに対して 日本人は床に膝をつく行為を美徳とする一方で、もう一方にはあの姿には力関係を明確にする為のものではないかと考えた事がある。自分はあの姿を見るのは好きではない。なぜか切ない気持ちになる。

体罰に関してだけではないが、先生と生徒が話し合う場が今からは特に大切になってくるんだと思う。先生方には聞く力が必要になってると感じる。今の子達は結果には出ていないが、確実に私達が子供の頃より優秀である。しかし、結果としてでていない。これは子供達のせいではなく、教育に問題があることに気付きながらも変化しないことから歪が大きくなっているんだと思う。利権や自己保身の為に、子供達の未来が悲惨な事になる。未来を明るくするのは教育しかない。親である自分達も大人になっても学ばなければならない。大人である私達が学ぶからこそ、子ども達は学ぶ大切さを学ぶのだと思う。

C bに対して 確かに、力関係を明確にする部分もわかる。そうやっている教員を見かけたこともある。「子供にやらせて当然」というかそんな感じであった。その通りで、小学校での習慣からくるルールや中学校での明記された校則、問題がたくさん孕んでいる。子供との対話からどうしていったらいいのか考えていきたい。教育は問題だらけだ。

教員は今自己保身のものが多くいる。また問題とも捉えていない人もいるように感じる。自分は最近になってやっと学習し始め、さらに学習の楽しさを知った。通うことが目的の学校ではなく子供とともに学習の楽しみを知れるような学校になってほしいと感じている。 また、こういう一つ一つの問題を具体的に教員側に提示することの大事さも感じた。もちろん本当は子供もいてほしいのですが、子供と子供に関わるみなさんで学校のあり方を改めて見直して現場に伝えていきたい。

A cに対して 組織である以上、声を上げるというのはとても大変な事と理解している。更に言うと日本の教育は変わらないと思っている。変わらないではなく、変われないと言える。変われないのは先程言った利権絡みや、教育の成り立ちにまで遡る事になるので…。だからこそ、組織の中で上手く立ち回り、子供に対する愛は忘れない信念が教職員には必要であり、組織ではなく先生個人での在り方が大切になると思う。生徒の人生が、たった一人の先生との出会いで激変することを何回も目の当たりにしている。一人の力は微々たるものでも本気で接してくれる先生は生徒にとって救いだ。子供に、『なぜ?』と考えることを学んでもらいたいように、大人である私達も『なぜ?』を日頃から意識することが大切なのではないか。

C bに対して 自分は去年まで正社員今年から講師という立場で同じ学校に勤めている。この場を立ち上げたが、なかなか現場で大きな声で「変えようよ!」とは言いづらい、言ってもあんま賛同得られない、言えないのが現状である。しかし、ここでは匿名性をもって発言出来る場にして、できれば自分の周りの人とかも入って意見を共有できたら、それは思いを共有した集団にならないかなと期待しています。日本の教育が変わらないのはいろんな方から出てくる話だ。利権絡みだと難しい。今の教育を根こそぎ変えるというよりは、ルール設定を改めて自分たちで行う、新しい学校や教育の場のモデルを作っていきたいとは思っている。

そうですね、今学校で対話している子供に対して、愛をもって接したいと思う。またその愛がいつでも主観的になりやすいので、子供からや保護者から「どうなの?」と対話する必要がある。なぜ?を日頃から意識する!それはぜひやっていきたい。

A  bに対して 現場にいる先生方にしかわからない事が多々あるだろう。私も仕事柄、学校と関わることも多いため、理想と現実の間で苦しまれている先生がいるのも実情として理解している自分の想いとしては…子供の為にという想いの先生が正しいという場にしていきたいと、今現在携わっている学校の改革を行っている。
変わるのは厳しいが、理想は変えたい。頑張ります。

 


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