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第19回① 鈴木 幸雄先生 異例づくしのキャリア。産婦人科医が貫く信念とは

「医師100人カイギ」について

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「様々な場所で活動する、医師の『想い』を伝える」をテーマに、医師100人のトーク・ディスカッションを通じ、「これからの医師キャリア」を考える継続イベント。
本連載では登壇者の「想い」「活動」を、医学生などがインタビューし、伝えていきます。是非イベントの参加もお待ちしております!
申込みはこちら:https://100ninkaigi.com/area/doctor

発起人:やまと診療所武蔵小杉 木村一貴
記事編集責任者:産業医/産婦人科医/医療ライター 平野翔大

 臨床、研究、教育、行政、国内臨床留学、海外研究留学など、さまざまな経験をもつ鈴木幸雄先生。一見バラバラに見えるキャリアにも、実は一貫性があるという。産婦人科医として医局に所属しながらも、オリジナリティあふれるキャリアを形成してきた鈴木先生に、キャリア観について伺った。

鈴木 幸雄先生
2008年に旭川医科大学卒業後、横浜市立市民病院で初期研修を経て横浜市立大学産婦人科学教室に入局。2018年には横浜市医療局にがん対策推進専門官として出向。2020年に横浜市立大学大学院を卒業し、同年より横浜市大附属病院助教を務める。2021年よりコロンビア大学産婦人科に博士研究員として研究留学。日本専門医機構理事、厚労省の働き方改革の推進に関する検討会の構成員なども務める。在米日本人の健康と医療を支える NPO「FLAT・ふらっと」を運営。専門は、婦人科腫瘍、女性医学、臨床疫学。


学生時代に感銘を受けた、
ある産婦人科医との出会い

 学生時代は、授業と部活動の野球に没頭していた鈴木幸雄先生。長く続けてきた野球に関わる仕事をしたいという思いからスポーツ医学の道に進むことも考えたが、当時はキャリアパスが明確ではなかったこともあり、将来の進路について「臨床実習を機会に、ゼロベースで考え始めた」という。その中で出会ったのが、ある産婦人科の先生である。

 「患者さんにも丁寧に接し、常に同じ目線に立つ産婦人科の医師の姿に感銘を受けました。」 

 医師と患者はたまたま立場が異なるだけで、互いの関係性に上下性はない。「患者さんのために何かをする、そして患者さんを1ミリでもよくしたい」という感覚を大切にし、自分もその環境に身を置きたいと思い、産婦人科の道に進むことを決めた。

手術トレーニングのため異例の国内留学へ

 鈴木先生の医師としてのキャリアをユニークにした最初のきっかけともいえるのは、医師5年目の国内留学である。初期研修後、横浜市立大学産婦人科に入局し、産婦人科の専門研修に進んだ。

 その頃、産婦人科医の減少といったの背景もあり、医局同士の人事交流の話が上がっていた。人事交流先の病院の候補の一つが、北海道にある手稲渓仁会病院だった。腹腔鏡手術をはじめとした手術件数が多く、集中的に臨床や手技のトレーニングを積める環境だと感じたという。

 「行くのであれば、手稲渓仁会病院だと思い、飛び込みました。」

 現在の専門医制度では考えにくい、医局の枠を超えた国内留学であった。これまで積み上げてきた手技や経験を、もう一度見直すきっかけとなった。なぜこの手技をするのか、なぜこの治療をするのか――同じ医局の中では、普段当たり前にこなしてきた一つ一つの治療方針や手技について説明することが求められる。

 「丸裸にされたような感覚で、非常に難しい環境に身を置くことができました。」

 厳しい環境に身を置いたからこそ、臨床医として大きく成長できた期間となった。そこで培ったものは、今でも忘れない。

 「集中的に手術のトレーニングを積んだ3年間は、今でも財産になっています。」

 手稲渓仁会病院で過ごした3年間、臨床のトレーニングに集中したからこそ、横浜市立大学に戻ってきた医師8年目からは、臨床のペースを少し落とすことができた。社会人大学院生として博士課程に進学し、HPVワクチンの啓発に関わる臨床研究に取り組んだ。

 一方、臨床では、それまで大きな目標にしてきた婦人科腫瘍専門医や腹腔鏡技術認定医の取得も果たす。

再び異例のキャリア
横浜市への出向を決断

 産婦人科医としての臨床と、大学院で取り組んできた臨床研究に目途が立ってきた医師10年目。次に、鈴木先生のキャリアをユニークなものとしたのは、横浜市医療局への出向である。そのきっかけには、「海外で働きたい」という強い思いがあったという。

 「海外で働きたい」とはいうものの、例えば米国で臨床をするにはUSMLE(United States Medical Licensing Examination)の取得が必須であり、日本で産婦人科専門医とサブスペシャリティである婦人科腫瘍専門医へのトレーニングを一通り積んできた鈴木先生にはハードルが高かった。

 「渡米して研究し、いずれ帰国して母国・日本に貢献したい」と考えたが、研究留学する人のほとんどは基礎研究である。鈴木先生が大学院で取り組んできたのは臨床研究であった。

 何か今自分の持っているもので渡米できないかと悩んでいた時、「キャリアに悩んでいるなら、一度横浜市に行ってみたらいい」という横浜市への出向の誘いが舞い込んだ。

 横浜市立大学から横浜市への出向など、これまで前例がなかった。勧めてくれた先生や横浜市の職員は、「医療がどのように回っているか俯瞰的に見ることができる。貴重な経験になるはずだ」と、背中を押してくれたという。

 「正直、何をやるかわかりませんでした。しかし、むしろ前例がないというところに惹かれたんです。」

 手稲渓仁会病院への国内留学も、社会人大学院も、医局としては初めての経験だった。「自分には、これまで前例がないことに取り組むのが性に合っているように感じました。留学をしたいけれども行き詰まっていた、だからこそ、目線を変えてみようと思いました。」

 その決断をきっかけに、一年間、横浜市職員として市の医療政策に携わった。取り組んだ大きな事業の一つは、医療ビッグデータの分析事業の立ち上げだった。ゼロから根拠を作り、予算を取り、事業を進めていく過程は非常に難しい。それまで医療ビッグデータとは縁がなかった鈴木先生だが、データベースの構築とそのデータの研究への利用に向けて、日々働いていた。

 「頑張って何かに取り組むと、いずれどこかで点と点がつながります。」
 後に米国へ研究留学した際、最初に取り組むこととなったのが、医療ビッグデータのレセプトデータを用いた研究であった。

臨床研究で渡米を果たす

 大学院を卒業し、横浜市での仕事などにも区切りがついたころ、臨床研究での留学先を探すことになった。米国で婦人科腫瘍領域の臨床研究をしている高名な日本人医師がいた。南カリフォルニア大学の松尾先生である。

 何かヒントをいただけるのではないかと思い、それまで面識はなかったが松尾先生につないでもらうことができた。実際に想いを話すと「せっかくだったら」ということで、松尾先生がメンターと仰ぐ米国人婦人科腫瘍医を紹介してもらった。偶然にもビッグデータ研究の先駆者の一人ともいえる研究者で、現在の上司となる。

 渡米してから約3年、鈴木先生は今も米国で研究に勤しむが、そのやりがいについて伺った。

 「論文が掲載された時、初めてやりがいを感じます。自分の英語論文を通じて世界とつながった感覚になります。そして何より、その論文を読んだ人が、目の前の患者さんのマネジメントに活かしてくれる、これが臨床研究の大きなやりがいです。」

 臨床、研究、行政、教育、臨床留学、患者支援団体の運営など、一見バラバラにも見える鈴木先生のキャリアだが、実は一貫した軸が通っている。

 「患者さんを1ミリでもよくしていきたい」というモチベーション、まさに学部生時代の臨床実習の時、感銘を受けた産婦人科の先生の姿勢である。

 「目の前の患者さんも、そして自分が直接かかわることのできない患者さんにも、1ミリでもよりよい方向にすすめるよう、さまざまな角度からアプローチをしていきたいのです。」

 患者さんをよくするために、さまざまな角度から物事を見てきた。現在取り組む臨床研究はもちろんのこと、横浜市への出向で医療の仕組みをつくる立場から、患者さんに届ける医療サービスがどのように良くなるかを考えたり、ニューヨークでNPO法人を立ち上げ、現地で暮らす日本人のための患者支援団体を立ち上げたり…。

 そして、いずれは日本に帰国し、研究と教育ができる環境で、後進の育成に努めたいという。

 「自分のさまざまな経験を日本に還元したいと思います。自分のようにチャレンジしたい人の可能性を広げることのできる立場になることが、自分の進むべき方向性のように感じます。」

 大学の医局員でありながら、ユニークなキャリアを歩んできた鈴木先生。自身のキャリアについて詳細な道筋はあえて決めずに、短いスパンで突然降ってくるチャンスをものにする「キャリアドリフト」と、長いスパンでは「患者さんをよりよくする」という自身の軸を見つめなおし修正する「キャリアデザイン」のバランスをうまく考えてきたという。

 鈴木先生のキャリア観に、一医学生として感銘を受けた。

取材・文:伊庭 知里(慶應義塾大学医学部4年)

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