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月とスッポン(仮) 【エッセイ】

子供の頃に「月とスッポン」という言葉を聞いて違和感を覚えた。なんでスッポンなのか?もっとよく聞く動物がいるではないか。そもそも動物でなくてはならない縛りなどない。森羅万象の中でなぜスッポンを選んだのか。

理由はどうやら、どちらも丸い形をしていながら美醜に差があるかららしい。確かにスッポンが美しいかと聞かれれば美しくはないと思う。でもなぜスッポンなのか?そもそもスッポンの丸さは甲羅だけではないか。誰だ、スッポンを選んだやつ。理由を聞かせい。

しかし批判は代案を持ってすべしという。これだけスッポン案を批判するのであれば、スッポンでなければ何がいいのか、代案を出さねばなるまい。
同じ生き物シリーズであれば、ダンゴムシやアルマジロの方が丸さを想起させる。美しくもなさそうなので適切だ。月とスッポン(仮)は日本の慣用句であるから、日本でよく見られるダンゴムシの方がより良いだろう。

月とダンゴムシ(仮)。これを小学生の頃に習っていたらこう思うだろう。なぜダンゴムシなのか、と。

ひとが作る多くのものは、多かれ少なかれ「偶然、たまたま」に依存するのだ。月とスッポンの提唱者がその日、空に月をみて地面にダンゴムシを見ていたら、この慣用句は月とダンゴムシになっていただろう。
ひとの創造物が真に最適ではないからこそ、偶然による選択の余地が生まれるのかもしれない。

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追記
月と石ころならどうかと考えてみた。
結論。たぶん流行らない。

スッポンだからこそ、悩む余地があり、悩んだ先にちょっとした理解のカタルシスがあるのかもしれない。
歌人の穂村弘さんのいう「0.5秒のコミュニケーション」である。
そう思うとダンゴムシでは役者が不足しているな。

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