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『閃光のハサウェイ』が他のガンダム観たことなくてもいいから観てくれ〜と言わせる理由

『閃光のハサウェイ』を観た多くのガンダムオタクが「今すぐ観て欲しい!」「ガンダム興味無くても観て欲しい!」「他のガンダム一個も見たことなくていいから観てくれ!」と口々にしている(気がする)

いつもはあんなに観る順番!観る順番!と口うるさいガンダムオタクたちがなぜここまで掌を返したのか。それは『閃光のハサウェイ』という作品が他のガンダムやロボットアニメ、況やバトルものの作品群と根本的構造に於いて異なるのではないか?という仮説に基づいて『閃光のハサウェイ』構造分析をします。

とはいえまだ1回しか観てないので、ファーストインプレッションの整理をしてから2回目に行こうという趣です。ウルトラネタバレ注意。

一般論

バトルものの作品において、バトルシーンはキャラクターの感情の高まりや相互の緊張がピークに達した末に発生するものである。

国や組織間のイデオロギーの対立
追う者と追われる者
すれ違いによる摩擦

等等。それらのエネルギーがピークに達した時人は暴力という手段を取らざるを得なくなる…という普遍的テーマをバトルものは内包している。例を幾つかあげて考える。

・『仮面ライダークウガ』

『クウガ』に限らず概ね多くの仮面ライダーに当てはまると思うが、刑事事件として扱われる為に他作品よりわかりやすい。

物語はグロンギ怪人による殺人ゲームから始まる。罪のない民衆を襲う殺人ゲームを止めるべく調査を始める警察サイド、一個人として誰かの精神的支えになる五代雄介と登場人物A(ゲストや準レギュラー等エピソード毎に変わる)、ゲームのルールに則って殺人を繰り返すグロンギ怪人。

ゲームの法則性が徐々に紐解かれると共に次の殺人現場がフォーカスされていく緊張感、登場人物Aが五代を通じて変わっていく高揚感、この2つのボルテージが高まる様を出現予想ポイントに向かうバイクシーンによって焦らされるように演出され、グロンギ怪人と五代が相対した時に「変身!」というセリフをもって爆発する。

・『ONE PIECE』アラバスタ編

アラバスタ王国を救いたい王女ビビ、正体と真の目的が不明のクロコダイル、指示されたままに働くバロックワークス、ビビに共感した麦わら海賊団、というのがウイスキーピーク出発時の構造。小競り合いをしながらアラバスタを目指す。

アラバスタに到着しバロックワークスの本拠地を狙う麦わら海賊団、首都アルバーナ・王座・国王・そしてその地下に隠されるポーネグリフを狙うクロコダイル、父を救いたいビビ、クロコダイルの策略のままにアルバーナを攻める反乱軍。それぞれの想いが交錯し、その摩擦が首都での全面戦争という形を引き起こしてしまう。

『ONE PIECE』が丁寧なのはラストバトルの地下にその後の伏線がしっかり置いてあることですね。ポーネグリフを守るネフェルタリ家と天竜人・空白の100年との関係を示唆。勝敗をもって登場人物の感情を全て整理すると同時に、世界観への謎を置いて読者を飽きさせない構造。(なお20年近く回収されていないという事実)

小まとめ

ボルテージという目に見えない概念が、具体的場所にて姿を具現化させ一同に会する瞬間のカタルシスこそがバトルものの醍醐味であろう。

舞台紹介フェイズ→準備と緊張フェイズ→戦闘フェイズ

この構造をもつミクロなエピソードを積層させ、マクロ的にもこの構造を実現していく。準備と緊張をもってキャラクターの心理描写が行われ、戦闘フェイズはそれらが導く結果に過ぎない。

戦いが人の行き着く結末である。

という定理がバトルものを成立させており、当然のルールだと思っていた。思っていたんです。

本題:『閃光のハサウェイ』のバトルの特異的構造

『閃光のハサウェイ』においては戦闘シーンが感情の通過点として描かれる。戦闘に向けたボルテージの高まりは演出されず、刻々と時が過ぎていく。

マフティーはゲリラであり、連邦は不法住民とゲリラ組織を弾圧する組織に落ちぶれたため、作中発生する戦闘がテロ・ゲリラ・弾圧といった偶発的小規模戦闘が起こるのみ。

しかもそれらも戦闘に向けた準備活動が殆ど描かれない。例えばゲリラ戦を行う作品として印象深いのが『コードギアス』やその元ネタ(要出典)の『デスノート』だが、これらの作品は作戦立案・準備を通して緊張感の高まりを演出する。

『閃光のハサウェイ』にある準備フェイズはたったの3箇所、散歩・大佐が腕組んで鞭振ってるとこ・終盤のエマージェンシーコール。しかもハサウェイはエマージェンシーの現場に向かわず別の現場に向かう。それが予定調和であるかのように。

ではこの作品に“心理描写”は存在しないのか。全く否である。戦闘フェイズそれ自体を以ってハサウェイの心理を描写するのだ。

0.冒頭

時計の秒針を思わせるクリック音。輸送機テロが発生し、冷静かつ感情的に声を上げるカボチャ頭と対比的に事務的応対をするハサウェイ。ギギがフックとなって鎮圧するが、ハサウェイの思考はどうも感じにくいまま輸送機を降りる。

芸術的映像と機械の様に戦闘をこなす主役が、スパイアクション映画の様な印象を残すアクションシーンであり、内面を見せないクールな主役感を演じているが、このシーンによる心理描写は終劇の瞬間に伏線回収される。

1.空港

観たまんま心理描写たっぷりなんで割愛!

2.散歩

仲間っぽい人達と連絡っぽい事をする。(一応)マフティーの正体を仄めかしながら意味深なやりとりが繰り返される。この後の戦闘は予定通りであるらしい。

ハサウェイが彼らをどう思っているかは(正体を隠すためにも)秘匿されているし、ハサウェイの内面を見るきっかけになる筈のギギについても多くは語らない。

このシーンは一般論に当て嵌めれば準備フェイズのはずなのだが、ハサウェイの内面はその正体と共に謎のままである。

逆説的に、マフティー・ナビーユ・エリンという正体がハサウェイの内面そのものであると示している。

3.明朝

ホテルの時計が時刻を告げる。(3:43でしたっけ)ダンスミュージックは夜這いの伏線。シェアルームの個室で1人泣くハサウェイ。ガウマンの駆るメッサーがゲリラ戦を始める。市街地を背にするメッサーを容赦なく狙う連邦軍の攻撃の中、ハサウェイはギギの救出を優先したためガウマンは捕縛される。

これまた一般論で言えば、こんな込み入った戦闘中に心理描写なんてやってられない。もしくは攻撃を躊躇して負けてしまうあるあるパターン。俺のせいで大事な仲間をウワーン(泣)みたいなやつ。

そう見えなくもないが、この戦闘中ハサウェイはガウマンを一切気にかけない。戦闘の主役であるガウマンとレーンが視聴者に紹介されるのは戦闘終了後。ハサウェイはあっちの赤髪女についていくかこっちのパツキン女子を守るかしか考えていないのだ。

まーた女のケツばっか考えやがって童貞野郎が!とも思うが、この2人の女性がハサウェイの前に敷かれた2つの選択肢を示唆している。ハサウェイという少年が存在しうる最後の場所がギギであり、マフティーへと成る道への躊躇が、この後も彼の脳内を逡巡する。

その心理描写を支えるのがイメージボードから組み立てられたと言われるシーン構成。ゲリラ戦闘へ向かう緊張感を演出する夜間風景、ペーネロペーの駆動音、コックピットの全周天モニターが、人生の岐路が近づく高揚感を示唆する。爆風の距離感が作画・SE・民衆・MSを用いて演出され段々と近づく。ハサウェイとマフティーが、巨大な理想論と目の前の現実、その間のギャップをハサウェイはどう捉えているのか。ギギという不確かな人物が最も身近な現実となる時に咲く花火が表すのは、彼の中で弾ける何かか、それとも流した血飛沫はあとで拭けということか。

4.メシ

美味そう。

5.マフティー・ナビーユ・エリンへ

散歩シーン長いね。ハサウェイの顔を捨てる最後の儀式。

ケネス大佐はハサウェイの正体に気づき、クルーザーも目撃されてマフティー基地の捜索を開始。尋問や鞭からその焦燥感・高揚感が伝わる。“戦争屋”と呼べる唯一のキャラクター。

ケネスやレーンの焦燥感とは対照的にハサウェイは非常に落ち着き払っている。他マフティーメンバーを励ます余力を持ちながら淡々と作戦を遂行する。

ハサウェイは1人になった時にしかその感情を発露しない。メッサーからハッチ、ダクトを通りΞガンダムのコックピットに入るまでの時間。このシーンの緊張感だけが彼の最後の決心、ハサウェイを捨てマフティーに成るための階段を直接的に表している。エメラルダの虚勢、エアー抜き、宇宙空間の無音、ノーマルスーツの布連れ、ダクト内のカメラワーク、それらを以てしてこれから先の後戻りできない覚悟を演出する。このシーンがこの映画の緊張の頂点であり、終着点であると言っても過言ではない。

上手にて朝日を背負うΞガンダム、下手からそれを追うペーネロペー。原典『オデュッセイア』では追われる側の女神であるペーネロペーが、あかつきに女と別れんとするハサウェイを追う。

6.置き土産

置き土産の時計。この映画にて演じられたほんの2日程の時間は、全てマフティーの作戦であったことが示唆される。

その計画を邪魔どころか“マフティー”を愚弄され、地球圏の魂が呼び起こすニュータイプ的感覚をフックにして、カボチャ頭を戒めるところからハサウェイ最後の青春が始まっていた。

ハサウェイという人物

ガンダムといえば主人公の思春期、少年から大人になる瞬間を描く、というのがお決まりである。

『閃光のハサウェイ』におけるハサウェイは少年というには少し歳をとり過ぎているだろう。『逆襲のシャア』にて自分の少年性の暴発が悲劇を引き起こす事を知った彼は、“マフティー・ナビーユ・エリン”というイデアを設定する。青年が大人になる最後の瞬間を描かれるのが本作の主人公像だろう。

結局何がそんなに面白いの?

ハサウェイ=マフティーなんて事はどこにでも書いてあるし、でっかいガンダムが出てくることも宣伝されまくっている。派手な戦闘シーンもたくさんある。

しかしそれらは全てガワの部分であり、戦闘・人物・MS…作中に存在する全てが現実と非現実を行き来する間でハサウェイという現実がマフティーという虚構に変わっていく様を、圧倒的表現力を以って触覚的に伝えてくる映画なのである。

作りが根本的に違う、にもかかわらずそれを全くの違和感なくわからせる、その体感は観た人にしかわからない、という凄まじい作品なのだ。

まとめ

これを1から説明するのめんどくさいしロボットアニメ見てない人にはそもそも説明する意味が無いので観に行ってくれ!ガンダム知識いらないから!という説明になるということです。

狙い定めるシャアがターゲット

白松がモナカの「が」の意味を読むの昔から苦手なんですが、ハサウェイ視点で見ると意味変わってきますわね。


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