見出し画像

チュチュの手合わせお辞儀考察したら石投げられてて悲しい事件だなって話

今日の現場はここです。

恐らくここまで拡散されるつもりではなかったろうに、アルゴリズムの波に乗ってしまいビューが増えた過ぎた結果、RT5000人超えると~の法則に従って多くの誤解を引き寄せてしまったのだろうと感じる。

ツイ主さんの本筋は本当に素敵な考察のタネだったろうに、ちょっとした表現の食い違いが大きな悲劇を産んでしまっている。ツイ主さんにチューニングを合わせて素敵な考察をリプしている人もいれば、ツイ主さんを何かしらの警察だと判断し以下のような画像を送っている人もいる。

オールドタイプのオタクと令和のオタクの発達の違いを感じたので、そういう考察をします。

ギャップ①:◯◯警察対策のジェネレーションギャップ

オタクの層を分析するため、オタクの敵となるクラスタを定義していく。

クラスタ①:興醒めおじさん

例えば「アンパンマンの古い顔はどこいったの?」とか「サザエさんは歳を取らないの?」のような事を言ってくる輩がいる。
多くの人間は発達の段階に応じてそういった疑問を抱くようになり、それを機に”卒業“してしまうようだ。精神的に成熟し作品に過集中することができなくなってしまった。常にメタ的視点を持つことが自身の成熟を肯定するという循環参照を行なっている。
余談だが私に父がまさにそうで、ゴジラはマンセーする癖して僕が観るゾイドは安っぽいと非難してきた。50を超えてからその循環から解脱したのか突然鬼滅を全巻揃えたりしている。
この様な疑問は(2次創作のネタになることはあっても)本編の粗探しであって考察のネタや伏線というものではなく、熱心なファンにとっては興醒めな指摘に他ない。
にもかかわらず熱心なファンに向かって興醒め指摘をぶつけてやる事を生き甲斐にしているおじさんはまあ~~よくいる。全オタクの敵だと言わざるを得ない。
この存在をここでは興醒め指摘おじさんと称する。

クラスタ②:◯◯警察

今回で言えば「西洋ベース世界観でお辞儀させるな警察」のような自警団がいる。
警察クラスタは興醒めおじさんと似て非なる存在だ。彼らは掲げている正義に対して確固たる根拠がある。何故なら彼らは熱心なオタクだからだ。お辞儀オタクだからこそ、お辞儀警察をやっている。
しかし熱心なファンにとって警察のご指導はやはり興醒めであることが多い。ガンダムに核融合炉が入るわけないだろ!とか言われてもどうしようもないし、ミノフスキー粒子がどうのこうの⋯と反論したとて警察の論理にミノフスキー粒子は存在せず「ガンダムオタク(笑)」で終わりだ。

一方で全てオタクは警察堕ちする可能性を秘めている。女が主人公のガンダムなんかあってたまるか!1話からファンネルを出すな!そう思ったが最後あっという間のガンダム警察に成り果ててしまうのである。
オタクになってしまった以上、警察堕ちしないという保証はどこにもない。

そして件の“お辞儀警察”クラスタは歴史も古く規模が大きい。

例として上がっている『Zガンダム』も”欧米に準ずる世界観”かと言われればそうでもあるしそうでもないわけだが、どちらとも言える以上強く否定できない。強く否定すればその瞬間あなたは立派なガンダム警察の一員。
結局、“手癖で安易な演技させやがって”という指摘はクリティカルな指摘にならざるを得ない。

Case①:考察が好きなファンによる警察対策

それでも熱心なファンはこの作品を茶化すなと言わなければならない。

「少なくともこの作品ではこのような説明がついています」

という目標に目掛けて、「ミノフスキー粒子」のような設定や描写を引き合いに出して、自分たちが熱中するに値すると発信する。

『水星の魔女』作中にある日本的文化の示唆は多い。カップラーメンを箸で食べる、ネーミングセンス、フォルドの夜明けの拠点等。
今回のチュチュのお辞儀も含め、この作品の世界観のベースにある宇宙的文化混合における日本的文化割合は決して少なくはないのだろう。

つまりこのツイートは、暗にお辞儀警察への牽制をしているのだ。
ここでチュチュがお辞儀することの意味を水星の魔女ファンクラスタへ問いかける事で、お辞儀警察の介入を拒絶せんとしているのではないか。

しかしながらその問いかけが綺麗すぎたが故に悲劇を生む。

Case②:考察が嫌いなファンによる揚げ足取り対策

そもそもこんな揚げ足取りに付き合ってやる必要がないのだ。
興醒め野郎も〇〇警察も、つまらん揚げ足取りと一緒くたに断じて距離を取ってしまえ。
非常にまっとうな正当防衛だと思う。エンタメの楽しみ方なんて人それぞれなのだから。

こういうタイプのファンからしてみれば、このツイートは「あるシーンを切り抜いて揚げ足を取ってるめんどくさい人」に見えて仕方がないだろう。
言葉の節々に込められた毒気がそれを演出している。お辞儀警察を牽制するための毒が、余計な人を傷つけてしまっている悲劇。

揚げ足取りからファンを守る言葉は古来から産み出されている。
「俺の宇宙では出るんだよ」
「作者そこまで考えてないと思うよ」
「日本語でしゃべってる時点で(深く考えてもしょうがない)」

深く考えすぎず、見たまま感じたままを楽しみたいというのも一興。余計な事を言う人とは距離を置きたい。
でも感想は言い合いたい。考察はNG。”感想”が言い合いたいの!

このエゴが考察好きへの暴言リプとして発露してしまう。静かに距離を置けばそれでいいのに。

しかし”余計な事を考えたくないファンクラスタ”から誤解された一方で、”考察が好きな若いファン”からも誤解をされたのではないかと感じる。

ギャップ②:現代“考察系“構文の確立

”考察系”ブーム

かつての考察とは、小中規模のサークル内で議論されたり、それが本になったり、またそれを読んだ友人同士でやいのやいの言ったり、時代が進んで匿名掲示板で議論されたりと、その主軸が相互コミュニケーションによって成り立つものだった。

しかしSNSの発達により発言者の匿名性が下がった一方でコミュニティが大型化したこと、動画配信の拡大によって一方向型コミュニケーションを軸とした考察が台頭している。
会話のラリーが続くことはなく、お互いが用意してきた意見を交換し合うのみ。そもそもSNSは長期ラリーには向かない。

その環境下において、必然的に良いプレゼンができる考察者が評価される。

主題→問題提起→根拠→結論(=主題)

プレゼンの常套手段、これを考察に置き換えれば

タイトル→気になった描写→それをこう考察しました→ドヤ顔でタイトル

もっと具体的にすれば、

シャンクス双子説!
→目の傷がない!(第n話参照)
→これって二人いるってことじゃないの?
→シャンクスは双子なんです!!!(ドヤ顔

チュチュニカ!!!!
→チュチュが手合わせてお辞儀した!(スクショ参照)
→ニカ・ナナウラってめっちゃ日系の名前だよね・・・!?
→キマシタワー(ドヤ顔

この構文があまりに常識的になりすぎて、それ以外の考察的文章が考察として受け取られない恐れがある。

議題となるシーンの抽出→考察Aor考察B

例のツイートはこの構文。
問題提起としては非常に適切な構文なのだが、現代”考察系”構文とは違うために、

議題となるシーンの抽出→考察Aを反証して→考察Bが結論

に誤読させているのではないか。

せめて「お辞儀警察案件か、それとも仏教文化の示唆か」の語順で書いてれば要らぬ誤解の半分は防げたのではないかと思う。(ただし、お辞儀警察への牽制は弱まってしまう。)

結論のない考察があってはいかんのか?

敢えて結論を明言しない考察スタイルで話題のドロピザさん(故に自身を考察系と呼ばれるのを拒否している)
結論を言わないせいで心無い言葉をかけられているらしい。

やばい

オチがない
このままではプチ炎上してしまう


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?