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東京都渋谷区南平台町45番地(現在の住居表示は南平台町12番地)

かつて南平台町にあった高峰三枝子(女優・歌手)の邸宅(敷地面積 約500坪)を隣家(敷地面積 約450坪)に居住する岸信介が総理大臣私邸兼迎賓館として借り受けましたが、岸の総理退任後、1964年11月に統一教会(本部協会)がその邸宅に入居しました。1965年8月に統一教会(本部協会)は松濤へ移転しましたが、この邸宅が売却される(秀和レジデンスが建設される)頃まで原理研究会、他、はこの地にとどまりました

1958年に日本で布教活動を始めた統一教会(世界基督教統一神霊協会)は1964年7月15日に宗教法人として認証されましたが、その活動は徐々に社会問題化(親泣かせの原理運動・親泣かせの統一教会)しました。

1967年9月29日公開 この若き信徒たち~原理研究会問題(中日新聞社)

古地図(昭和38年)


第56代 岸信介

安保闘争の標的となり、渋谷南平台の私邸に
安保反対のデモ隊が押し寄せる。
退任後移住した御殿場の邸宅は、名建築として保存。

政界復帰を控えた昭和27年、南平台に自邸を新築した。政界復帰から総理就任までわずか2年10ヶ月である。総理公邸は使用せず、隣家の高峰三枝子の家を借り、ひとつづきにして公邸機能を持たせた。自派、箕山会(きざんかい)の事務所がメインだが、会合や記者会見の場としても用いた。

昭和35年の日米安全保障条約改定をめぐる騒然とした世情の中、私邸のある南平台一帯の街路もデモ隊に埋め尽くされた。シュプレヒコールだけでは収まらず、石や板きれ、ゴミ、はては火がつけられた新聞紙まで投げ込まれた。正面の門が押しやぶられたこともあった。6月19日零時の安保条約自然承認を前に、18日夜は佐藤栄作(大蔵大臣)とともに永田町の総理官邸に泊まり込んだ。ブランデーをなめながら「その瞬間」を待ったという。アメリカ大使館で批准書交換が行われた6月23日、岸信介は退任を表明した。

退陣から10年ほど経った昭和44年、南平台から御殿場に移り住む。隣家がマンションになるのを嫌ったためだという。


1 高峰邸

渋谷南平台の高峰三枝子邸は洋館だった。
洋風好みだったのか、広い庭に芝生が広がっている。真ん中に一本の木が立っている。木陰が出来るほど大きい。車は2台用の、ガレージ車庫となっている。車庫から道路までは数十メートルある。
家は鉄筋2階屋、裏に別棟の運転手用か和室の家がある。母屋は洋間を中心、一部和室が有る。家屋の有る所はコンクリート地面で有った。他は芝生、日光は確りとれている。円形の大きく直径7メートルくらいのポール風の出窓のある部屋が、特徴だった。絨毯を敷いている。
車庫の脇に犬小屋が設置されている。大型犬にも十分な家だった。人が中に立って入れた。
恐らく大型犬好みでは無かったろうか。
高峰さんに子供達も会っておいた方が良いのでは、と言う事で小生も会わせてもらった。
サングラス帽子をかぶり、その姿は女優そのものだった。
以後よく高峰秀子さんと共に映画の宣伝などを見ていた。

藤原洋 澁谷南平台 (pp. 3-4) モリタ出版 / BCCKS Distribution

高峰三枝子写真集 薔薇よ永遠に(桃櫻社・昭和52年)

2 岸邸

隣は岸邸だった。総理になる前だった。後に総理になって、高峰邸を借用し首相自宅にされたようだ。従って2棟の大邸宅が出来たことだろう。
岸さんが隣に居られたころ、静でお姿が見えると言う事は無かった。
岸邸は樹木が多く、和風という感じだった。高峰邸とは対照的だった。
ここの地番は澁谷区南平台40番地位だった。
この後数年で安保の大騒動が起きた。「安保反対ー」Aさん(元首相の兄)とAさん(元首相)とが言われていたそうな。
この家の一コマで有ったろう。

藤原洋 澁谷南平台 (p. 4) モリタ出版 / BCCKS Distribution

渋谷区にあった岸信介元首相の公邸。1960年5月、日米安保条約の強行採決に抗議して野党議員らが押しかけた。
これが安倍晋三の原点 祖父・岸信介の研究(週刊現代・2013年6月1日号)

沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”
掲載記事:昭和57年1月1日発行 本誌No.9 号名「梅」

楽しい町、田園調布   女優・高峰三枝子

土地との出合い

『袖触れあうも他生の縁』といいますが、私たちが或る土地に住みつくというのも、ご縁の問題だと思うのです。
私の家は以前、渋谷の南平台、いまの秀和レジデンスのところにありました。敷地は500坪ほど。そこを売ってどこかへ引っ越したい、と思っていた矢先のことでした。たまたま田園調布でロケーションがあって、駐在所を衣装の着替えに利用させていただいたのです。その時駐在さんの奥さんが、
「あそこの篠原さんの空地、お売りになるかも知れませんよ」
まさかと思っていたら、篠原さんの若奥さんが偶然お買物にお出かけのところでお目にかかりました。
「アラ、高峰さん! そんなら主人と相談してお譲りしてもいいですワ」
とおっしゃるではありませんか。あんないい場所が、即、決まってしまったのです。
不思議なものですね。あの土地は、私が住むべくご縁があったんだろう、と今つくづく思い知らされます。
土地というのは、どうしても欲しいと思っても手に入るものではないですね。やはり、ご縁なんでしょう。

五、宗教法人・統一教会の出発

(4)本部教会を渋谷区南平台に移転

1964年11月1日、本部教会を、約1年間住んだ世田谷区代沢から、渋谷区の南平台町45番地に移転しました。

渋谷区南平台の本部教会(1965年1月1日撮影)
御聖誕祭の記念撮影(1965年2月7日、渋谷区南平台の本部教会)

日本を愛した文先生の足跡(15)

南平台から松涛へ

本部教会が渋谷区南平台から松涛に移転されたのは1965年8月23日でした。以後、70年代にかけて、文鮮明先生はたびたび日本を訪問され、松涛の本部教会に足を運ばれました。

1982年に現在の建物に建て替わる前の旧本部教会(渋谷区松濤)

初めて訪問されたのは、1965年9月29日のことです。南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、中近東、東南アジア、香港、中華民国など世界を巡回された後、日本に立ち寄られたのです。

続・日本統一運動史 7

統一旗授与式

1965年1月29日の午後7時30分より、真の御父様から日本統一教会へ、統一旗の授与式が行われました。

授与式の後、和動会が持たれ、午後11時半を過ぎたころ、真の御父様から統一旗マーク入りのハンカチが出席者全員に配られ、その後、真の御父様の御言が午前4時まで語られました。

1967年


『安倍の選挙区は山口4区(下関市・長門市)ですが、本人は生粋の東京っ子。生まれた時の自宅は港区六本木にあったと聞いていますが、その後、父母とともに渋谷区南平台の岸信介邸の敷地内に転居しています。安倍がまだ2歳のころですね。養育係だった久保ウメによれば「晋ちゃんはおむつが取れるかどうかというころ」だったそうで、広い家の中をちょこまかと歩き回っていたそうです。当時の岸は隣にあった女優の高峰三枝子の夫の洒落た洋館を借り受け、晋太郎・洋子一家を住まわせていた。両親が不在がちだった幼少期の安倍は隣の岸家に入り浸って祖父に甘えていました。だから、ずっと東京育ちです。』

『都内でも指折りの高級住宅地としてその名が知られる渋谷区南平台。岸が自身の邸宅に隣接する往年の名女優・高峰三枝子の五百坪の土地と屋敷をそっくり借り受け、二軒合わせて自宅兼迎賓館として使い出したのは56年夏のことだ。ヨチヨチ歩きの二人の孫と岸が戯れる芝生は、高峰が映画人らを招き華やかなパーティに酔いしれた場所でもあった。』

『1956年、岸元首相は、高峰三枝子の屋敷をそっくり借り受け、自宅兼迎賓館として使い始めました。しかし、首相退任後に返却し、その後の1964年、この建物を統一教会が借りて本部にしたのです。』



序章 南平台の家 ── 「60年安保」の渦中で

 
1960年6月

渋谷駅から道玄坂を上がると南西に丘陵地が広がり、南平台町と呼ばれる閑静なたたずまいの一画が見渡される。

玉川通りに面した表通りは、今日では再開発地域となって高層ビルが建ち並ぶが、一歩裏へ入るとまだ昔日の屋敷町の面影を求めることができる。

もとよりこの地は江戸の外れに位置し、武家屋敷が散在するほかは森林と田畑におおわれた台地だった。

眺望のよさに惹かれたのか、明治、大正期に入ると外交官や財界人、政治家などが競って屋敷を構えるようになった。

明治22(1889)年、東京市が再編されるに伴い渋谷村が誕生する。

本書の主人公、岸信介が山口県吉敷郡山口町(現山口市)八軒家で誕生するのはその7年後のこと、明治29(1896)年11月13日である。

山口で生まれたが、間もなく田布施という瀬戸内海寄りの寒村に移り、育つ。

近代日本がようやくその体制を整え、日清戦争に勝利した翌年のことになる。

岸が呱々の声を上げてからおよそ60年が過ぎていた。

昭和30(1955)年11月、民主党と自由党の統一が図られ、新たに自由民主党が誕生し、初代幹事長に岸が就任する。

終戦からまだ10年しか経っていない。

ひと月早く左右社会党の大同団結が実現しており、いわゆる55年体制の確立がなった年でもあった。

翌31年暮れ、岸は石橋湛山内閣の外相に就任。その直後、石橋が病に倒れ、32年1月末には首相代理、2月25日には第56代内閣総理大臣に就任する。

岸がここ南平台に四百五十坪ほどの土地を求め、豪壮な屋敷を構えたのはこうした政局を迎える数年前、昭和26年2月(土地登記は2月10日、家屋登記は2月19日)であった。

土地は日本開発銀行初代総裁だった小林中から買い受けたといわれている。小林は東急の五島昇と懇意にしていて、渋谷一帯の東急の土地をかなり押さえていた。

破竹の勢いとはこのことである。

権勢の頂点を目前に見据えつつ、この地に家を建てたのは、南平台の名声を耳にしての選択であったろう。

晴れた朝には遠く富士山を望める高台に岸は立った。

町内には往年の外交官として著名な内田定槌(ブラジル大使、トルコ大使など歴任)が明治末に超モダンな西洋館を建てていた。

西郷隆盛の弟、西郷従道(元帥海軍大将、海軍大臣)が建てた洋館も旧山手通りを挟んですぐ西隣にある。

いずれもが国の重要文化財級の建築であり、岸の興を誘ったであろうことはうなずける。

南平台のそうした土地柄を気に入っていた岸には、傍の者が思うより西欧好みなところがあったようだ。

家を建てて9年が過ぎた昭和35年6月初旬である。

その間に総理大臣に昇り詰めた岸信介は、自宅の茶の間で孫を膝に乗せて遊び相手を務めていた。

ついさっきまでふたりの孫と広い屋内を駆け巡って鬼ごっこに興じている岸を、妻の良子と長女の洋子は半ばあきれ顔で見やっていたものだ。

巣鴨拘置所から解放されておよそ11年半である。

岸は、アメリカとの二国間条約改定に向け、強い意志を見せつけていた。安保条約改定へのゆるぎない決意を示す眼光だけは、ゆるんだ表情にも見てとれる。

孫と遊ぶのはいつもの見慣れた光景だった。

だがそれは屋敷の中だけのことであり、屋敷の外は渦巻くデモ隊に取り囲まれ、騒然たる怒声とシュプレヒコールに埋まっている。

「アンポ反対!岸を倒せ」
「アンポ反対!ハガチー帰れ」

60年安保闘争が、その頂点に達していた。

茶の間の奥がこの家の台所である。割烹着で手をぬぐいながら洋子が声をかけた。

「いつまでもおじいちゃまの邪魔をしてはいけませんよ、しんちゃん」

岸はこの騒動の中にあって一見落ち着いた風情を崩さない。あと5ヵ月もすれば64歳を迎える文字どおりの好々爺にしか見えないであろう。

長女の洋子(昭和3年6月生まれ)に「閑つぶしだ。孫たちを連れてきてはくれまいか」とほぼ連日電話で頼むようになった。

洋子にしてみても父親の安否が気遣われ、ただ自宅にいても落ち着かない。
嫁ぎ先である安倍晋太郎の家は世田谷区代沢にあり、自動車ならたいした時間はかからない。

ただ、不安は、デモ隊に囲まれた南平台の父の家に幼い子供ふたりを連れて今日も首尾よく入り込めるか、という一点だけだった。

「のぶさん、裏の細道からならなんとかなるでしょ。そういってやってくださいな、洋子たちに」

母の良子のいつもの台詞が電話口の向こうから洋子の耳にも届いていた。まだ59歳の良子の声は古風だが、張りがある。

この屋敷にはほとんど誰にも気付かれそうにない細道が裏に付いていた。
自動車一台がやっと通れるほどのその抜け道から入るようにと良子が夫に指示を出しているのだ。

岸夫婦はお互いを「よし子さん」「のぶさん」と名前で呼び合うのが長年の習慣だった。

岸が育ったのは15歳までは佐藤家である。佐藤家の次男として生まれていたが、父、秀助の生家である岸本家の当主信政伯父の急死に伴って岸家の養子に入ることとなった。

良子はその家のひとり娘だった。つまり従兄妹同士の結婚である。

「のぶさん」「よし子さん」はそのときからの呼称であり、半世紀もそう呼び合う仲なのだ。

のちに詳しく述べるが、ここでは岸本人の回想記と洋子の著作からふたりがごく若くして同じ屋根の下に起居していたという事実だけを拾っておこう。

「5つ年下の良子は私が西田布施の高等一年の時、尋常一年に入って来た。従って養父の亡くなった時は尋常三学年、数え年10であった。──その頃岸家は良子の外に70を過ぎた祖母が居られた」

(『我が青春』)

「父は佐藤家の次男から岸家の養子に入りまして、早くから上京して母とは学生時代から一緒に暮らし、母が実践女学校を卒業してから、父は東大に在学中でしたが、大正8年に結婚したのです」

(『わたしの安倍晋太郎』)

昭和35(1960)年5月後半から6月にかけて総評、社会党、共産党系のデモ隊(安保改定阻止国民会議)が、連日のように南平台の岸邸にデモを掛けていた。

国会周辺への闘争が主だった全学連主流派も最近では南平台に押し寄せ、渦巻きデモを繰り返すようになった。

総評系よりはるかに過激な全学連のデモは、岸邸の門の中にまで入り込む勢いだ。

「アンポ反対!ハガチー帰れ」

ハガチーとは、アイゼンハワー米大統領の新聞係秘書(現大統領報道官)である。日本政府は安保条約改定成立に合わせ、アメリカのアイゼンハワー大統領を招聘する予定になっていた。

秘書はその下準備のため、数日後には来日する。

それを阻止しようという抗議行動がこの周辺だけで何千、何万人ものデモ隊に膨れあがっているのだ。

南平台一帯は押し寄せるデモ隊に完全に占拠された。

岸の屋敷内には火のついた新聞紙や石つぶてなどが投げ込まれ、多勢に無勢、もみ合う警官隊は明らかに劣勢である。

隣家まで投石の巻き添えを食い、塀に「ここは岸家ではありません」と札をつり下げる始末だった。

家から出るに出られない岸首相は、閑居を決め込み、孫を呼び寄せたのである。

閑つぶしといえなくもないが、平静を装うにはもってこいの奇策にも見えた。いずれにせよ、悠然たる覚悟である。

当時5歳だった下の孫は、46年後の平成18(2006)年、総理に就任する安倍晋三(昭和29年9月生まれ)である。

その兄、寛信(現三菱商事執行役員)が7歳だった。

ふたりの孫が表通りで響き渡るシュプレヒコールに合わせて「アンポ、ハンターイ」とはしゃぎながら座敷を駆け巡っていた、という逸話はこれまでもしばしば紹介されてきた。

騒動が大きかっただけに、今でも安倍晋三本人の記憶も鮮明だ。

元首相が語る安保闘争当時の実話である。

「逸話のとおりです。ウナギの寝床みたいな細長い屋敷の裏に小道がありまして、そこから祖父の家の裏口に入れたんです。

祖父は和服でくつろいでいましたが、表は大騒ぎでね。鮮明に記憶は残っています。

祖父の家の前のお宅には兄と同じ年の子がいましてね、三人でその家のお風呂場の窓からデモ隊に向かってバンバンと水鉄砲を撃った覚えがあります。もちろん遊び半分ですが」

晋三の母、洋子は現在84歳になるが明眸皓歯、記憶も衰えることがない。

目鼻だちが父親そっくりに見受けられるのは当然だろう。

そうかしらねえ、と小さく笑いながら当時を語る。

「子供たちにしてみればデモ騒ぎもお祭りと同じと思うのか、塀の外のシュプレヒコールを真似して『アンポ、ハンタイ!』なんて叫んで座敷を駆け巡るんです。

私は『反対じゃなくて賛成と言いなさい』と叱るのですが、父はただ愉快そうに笑って見ていましたね。

さんざはしゃいで疲れて寝入った晋三を膝の上に置いて、初夏の日差しの中、縁側に座ってデモ隊を飽かずに眺めていた父の背中がいまでも忘れられません。

石つぶてや火のついた新聞紙なんかが塀から庭に飛んでくるのですが、幸いなことに道から家までは50メートルくらいあったでしょうか、座敷までは届かないのです。

子供たちは叱った成果が出たのか、最後のころには『デモ助、帰れ』なんて言っていました。水鉄砲の件もそういう時期でしょうねえ」

南平台の家ではしばし忙中閑ありに見えたが、永田町に出ればそうはいかない。

去る5月19日深夜から20日にかけて、安保改定法案を衆議院で強行採決して通過させて以来、岸は各方面から矢面に立たされていた。

野党はもとより、自民党内の反主流派、そしてそしてマスコミからも「早期退陣せよ」との声が上がり始め、剣が峰に立たされているかに見えた。

加えて6月19日前後の来日が予定され、スケジュールも確定しているアイゼンハワー大統領への面子もある。

日米間の信頼を大きく裏切るようなことになれば、これまでの苦労も水の泡だ。

縁側からデモ隊を眺めながら、四面楚歌、圧倒的な世論を敵に回しながらも孫と遊ぶ男の腹の中はどうなっていたのだろうか。

本人は、「私は向うが強くなればなるほど、強くなれるんです」(『岸信介の回想』)と言ってはばからない。

岸の真骨頂が垣間見える風景でもある。

洋子の思い出の続きを聞こう。

「代沢にある佐藤の叔父(栄作)の家のすぐ近くに住んでいたんですが、心配でいてもたってもいられず連日のように南平台の家へ通っておりました。そのまま泊まり込むことも幾度となくあったものです。

父を送り出すときなどには、ああ、これが最後の別れだと覚悟を決めていました。

安保のためなら命も投げ出すような父の様子を見ておりまして、正直、もう安保はどうでもいいから身の安全を考えて欲しいと頼んだこともあったくらいです。

でも父も覚悟を決めていたようで、胸の内までは覗けませんが顔だけはにこにこしていても安保だけは通すと腹を据えていたのでしょう。

縁側に座って『デモに参加している人たちは、必ずしも自分の意思で参加しているわけでもない』なんて言って眺めていました。

家は奥に向かって細長い地形に建っているのですが、門より建物が少し高くなっていましてね、よく表が見えるんです、縁側から」

「このデモ隊の人々のうちで、いったい何人が古い安保条約を読んだ上で反対しているのかね」と岸は嘆息まじりで呟いていたともいう。

南平台を取り巻くデモ隊と屋敷内の岸ファミリーの対比は、そのまま60年安保の縮図でもあった。


高峰三枝子邸

デモ隊が渦を巻いていた南平台の夏からさらにさらに52年が過ぎた。

平成24(2012)年初夏の一日、南平台の岸邸跡を訪ね、その地に立ってみた。

当時の地番で渋谷区南平台町45番地5号、現在では南平台町12番地となるそこに、もちろん岸邸の面影を残すものはなにもない。

岸は首相を退いたあと、南平台からいったん渋谷区富ヶ谷に転居した。ほどなく終の棲家として御殿場に豪邸を構えたのは、昭和45(1970)年のことだった。

気に入って建てた南平台の家を手放す気になったのは、隣にマンションが建つ計画が立ったからだという。

その隣家とは、往年の歌う大女優高峰三枝子である。

岸は高峰からそっくり屋敷を借り、長い間客間や事務所、つまり公邸として使っていた。

高峰三枝子がここに大邸宅を建てたのも、岸と同じ昭和26年であった。

岸が総理になる前の昭和31年夏、是非にと岸事務所(箕山社)が高峰に頼み込んだものだ。

岸の家より大きい五百坪の土地に百坪の建坪を持つ高峰の邸宅はこのときから岸が借り受け、二軒合わせた自宅兼迎賓館ができあがる。

いったい家賃の方はどうなっていたのか。高峰自身の説明がある。

「岸さんが総理になってからは、日本政府から(首相公邸として)月々十五万五千八百円ナリをいただいています。(箕山社に貸していたときはもっと安かった?)ええ」

(「週刊新潮」昭和34年3月30日号)

当時の庶民はどの程度の家賃を払って生活していたのだろうか。

戸建て、または長屋形式で6畳、4畳半、3畳に台所、便所の家の相場は昭和35年の統計によれば月額二千四百円となっている。

ちなみに昭和35年の大学卒国家公務員上級職試験合格者の初任給は月額一万二千九百円だった。ほぼ彼らの年収が一ヵ月分の家賃に相当した。

首相を辞めるとさすがにそこまでの広さは自宅では不要となり、西新橋に個人事務所を持つようになる。

その後、高峰三枝子も家を処分する事情ができ、そこへマンション建設計画が持ち上がった。

高峰の大邸宅が壊され、秀和レジデンスに建て替えられたのは昭和44年である。

続いて引っ越した岸邸跡にも秀和第二レジデンスが塀を接して建てられた。

眼前には二棟の白亜のマンションが並んでそびえている。

特徴ある南欧風の白壁塗りに青い瓦屋根は、60年代後半から70年代には高級マンションの象徴のように思われたものだ。

高度経済成長期に人々の憧れともなったこうしたマンションの成立そのものこそ、その十年前に成立した日米安保締結という安全保障の担保と繁栄があったゆえではなかったか──。

高級マンションに姿を変えていた安保の家を見上げながら、そう思わずにはいられなかった。

マンションの管理人に尋ねてみると、「確かに昔は岸さんのお宅だったと聞いています。はい、隣が高峰三枝子さんで。それ以外にはなにも知りません」

岸邸があった正面の道路にいま、人通りはほとんどない。

60年安保の年に建ったカトリック渋谷教会と並んで、三木武夫記念館がはす向かいにひっそりとたたずんでおり、奇妙な取り合わせに苦笑させられる。

三木武元首相は松村謙三や河野一郎などと並んで、岸にとって最大の政敵だったからである。

本当の政敵は、岸にとっては社会党や共産党などではなく、党内にあったからだ。

その最大のライバル、三木武夫は岸が越すと間もなくこの地に豪壮な屋敷を構えた。三木の没後、記念館として開放されたようだ。

あるとき岸がヘルペスになって入院中、三木が見舞いに来たものの「俺は絶対に会いたくない」と言ったという話がある。

かつてのデモ隊のシュプレヒコールの喧噪を耳に浮かべてみながら周囲をぐるりとめぐってみる。

旧岸邸の前を過ぎて、道玄坂のほうに向かうと見落としかねない細道があった。

「通り抜けできません」の看板と、車の通行禁止の標識があるが、歩いてみればちょうどもとの岸邸と高峰邸の真裏まで延びて、道は行き止まりになっていた。

この細道こそ、60年安保闘争のさなかに、安倍洋子とその息子二人が連日岸邸に入り込んだ勝手口につながる路地である。

ここならデモ隊からは死角になっていて、発見されないだろうと思われるか細い道だった。

当時、南平台の岸邸に詰めていた元秘書の堀渉(現「自主憲法制定国民会議」理事長)が事情に詳しい。

「高峰さんの家は一階が大広間で、二階に小部屋がたくさんあったので来客用にはとても便利でした。

岸邸は瓦屋根の和風建築でしたが、高峰さんの家はしゃれた洋館、植えてある樹木も洋風で対照的でしたね。

そこへ鈴木貞一(陸軍中将、企画院総裁)さんとか野村吉三郎(海軍大将、駐米大使)さんなどが見えていたのを覚えています。

たまに地下室のボイラーが故障すると大家さんに電話を掛けるんです。あの『湖畔の宿』のメランコリックな声が電話口から聞こえてくると、そりゃ、わたしら戦中派のモンはたまらんかったですよ。

両家の間にコンクリート製の塀があったので、表玄関まで行かなくても通れるように中をくり貫いてね。頭をぶつけないように用心して高峰家へ出入りしたのを覚えています」

昭和15年の大ヒット曲『湖畔の宿』は、発売当初歌詞が軟弱だ、歌唱法が退廃的だと軍部などから批判の声が上がった。

だが、18年に大東亜会議出席のため来日したビルマ(現ミャンマー)のバー・モウ長官がこの歌の熱狂的なファンだったことから、東条首相自らも隠れファンとなったという。

大東亜会議中のある晩、高峰を首相官邸の和室に招き、バー・モウの前で『湖畔の宿』を歌わせたという話が残っている。

岸はそのときの商工大臣であり、因縁は安保改定時代にまで引き継がれたことになる。

堀渉は海兵76期、江田島で終戦を迎え故郷の山口へ帰ったのが、岸との終生の縁に繫がった。

「ウチの大将、と蔭じゃ呼ぶんですよ。山口県の者はみんなその昔、田中義一大将のことを『おらが大将』と言ったように、岸先生のこともね」

山口県人、長州人の血脈の中でも、とりわけ類いまれな強い血脈を形成してきたのが岸信介のファミリーである。

岸が生まれたのは今からおよそ115年ほど前のことだ。

日清戦争の勝利が前年にあり、維新世代との交替が見え始めたその時代に話を戻さねばならない。

人は岸を称して「妖怪」とも「巨魁」とも言う。

さらには、ときに曖昧さも術数としたことから「両岸」とも言われ、「国粋主義者」とのレッテルも貼られた。

果たして岸の実像はどこにあるのか。

ときに相反する要素を抽斗から自在に取り出してみせる技は生まれながらに備えられたものなのか。

近隣の村を吸収合併した現在でも、出身地田布施は人口一万五千人足らずの小さな町である。

瀬戸内海にへばりつくようなその町を訪ねてみたい。

工藤美代子 絢爛たる醜聞 岸信介伝(幻冬舎・2014/8/5)
工藤美代子 絢爛たる悪運 岸信介伝(幻冬舎・2012/9/12)


国会議事堂周辺を取り囲む学生ら =昭和35年6月15日、国会議事堂前
岸信介首相邸を取り囲んだ反安保デモ隊 =昭和35年5月21日、東京都渋谷区の岸邸前
岸信介首相と良子夫人(手前が孫の安倍晋三氏) =撮影日時、場所など不明



1957年、祖父・岸信介の渋谷区の自宅にて。当時2歳半の晋三氏は窓外に響く「アンポ、ハンターイ」の声を真似て祖父を苦笑いさせるが、後に改憲を目指す原点ともなった。
結婚式で...媒酌人は福田赳夫元首相夫妻だった。(1987年)


これが安倍晋三の原点 祖父・岸信介の研究(週刊現代・2013年6月1日号)


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