なぜ私はVtuberを頑なに拒むのか

どうも、ド畜生です。

ツイッターをご覧になっている方ならご存知でしょうが、私は事あるごとにVtuberアンチの様相を呈しては一部の人間からブロ解されています。

私はとにかくVtuberが受け付けられないのです。


最初におことわりしておきますが、これは特定個人への私怨や誹謗中傷などではなく、一人間としての感性の問題です。

それを担保するためにも、特定Vtuberの名前や団体名は挙げないこととします。

Vtuberが嫌い、ということに関しては説明すると長くなるので割愛しながら”Vtuberは無理”という安易な言葉で表現してツイートをしてきたのですが、いい加減これをつぶやき続けるのも如何なものだろうか、と思いますのでここいらで要点をまとめながら私の感じるところを書き連ねたいと思います。

先に結論から申しますと、私は正確にはVtuberアンチなのではなく、”現実の”アンチだということを申し上げておきましょう。更に言えば、Vtuberのすべてが受け入れられないのではなく、受け入れられるVtuberも存在しているであろう、ということも添えておきます。

Vtuberを拒むにあたる諸要素

私に限らず、一定のオタク層はVtuberを拒んでいるように思われます。まずその諸要素を抽出します。

・配信者が無理

・スパチャ文化が無理

・現実が(演じられていないものが)無理

おおよそこんなところではないでしょうか。

まだまだ言いたいことあるぞというオタクもいらっしゃることとは思いますが、そのおおよそのことは三点目の”現実が無理”というところで説明されることでしょう。

一点目の配信者が無理、というのはそのままです。

昨今のVtuberは加工された動画を投稿するのではなく、決められた時間に何らかの配信を行うような形態のものがかなり増えてきています。

ニコ生主が持て囃されていたような時代を彷彿とさせる!と拒否反応を起こすオタクはある程度存在するでしょう。そういうことです。

裏を返せば配信を行わず、録画し加工された動画を投稿するようなVtuberであれば受容する余地が残されています。

二点目はVtuberというより、むしろそれを支える側の人間に対する拒否感でしょう。

スパチャ(スーパーチャット)とは、配信中に行う投げ銭のようなもの。

数百円ならいざ知らず、数万単位のスパチャを投げる人も少なくなくなってきました。

高額のスパチャをさながら愛の告白のような長文と共に投げつける様はキャバクラに入り浸る人のようです…それに拒否感を示す人もいるでしょう。

あるいはそうした拝金主義にも見えるような業務形態に対する嫌悪感もあるでしょうね。

これも裏を返せば、スパチャを行わないVtuberなら受容する余地があるかもしれません。

さて、三点目が私が一番説明したいところであり、私がVtuberを拒む最大の理由です。

現実が無理とは何か、ここで指す”現実”とは何か。

円滑に説明を進めるため、ここでの”現実”を定義しておくと、現実とは「諸二次元コンテンツの外」です。

前提として、私達が二次元コンテンツを受容するとき、私達はその中にいる、ということとします。

その空間は現実から隔離されており、そこにいる間、私達は現実を離れる、ということになります。

この定義に基づけば、現実が無理、とは”二次元コンテンツの外にいる状態が無理”ということになります。

今回はあくまで私自身の話なので、この最大の論点、”現実が無理”というところに則って話を進めます。

演じられていないものが無理、とあえてカッコ付で書いたのも後に説明します。

Vtuberは二次元コンテンツたり得るのか

そもそもVtuberは二次元コンテンツなのでしょうか。

これに対する一つの解として、演じられている/いない、という観点を提唱したいと思います。

うっかりしていたのですが、オタクと一言に言っても様々いるのを失念していました。

一応、ここで言うオタクとは私を倣って二次元コンテンツ専のオタク、ということにします。

二次元コンテンツとはアニメ、漫画、ゲームなどであり、そこに付随するような要素として、声優などのオタクは含まないものとします。(この点も私にとって重要なものです)

あまりにも局所的な定義なため、主語がデカいと言われても申し開きが出来ませんが、そう思われる方は”オタク”の箇所をすべて”私”に変換して読んでください。どうせ一オタクの感性でしかないので。

では、オタクは何を見て、何を受容しているのでしょうか。

私はこれを”演じられたもの”であると考えています。

演じる、とは先に述べた現実ではない空間を作り出すこと、です。

二次元コンテンツの創造と言っても良いかもしれません。

アニメであれ、小説であれ、そこに登場する人物は何らかの形で”演じる”事により、ここではない空間を作り出します。

現実ではないことの条件として、この”演じる”という要素は非常に重要なように思われるのです。

語彙が無いためにこの点をうまく表現出来ないことにもどかしさを感じるのですが…言うならば、”演じられた”内容はそのまま第三者の視点としてすっかり受容できるということが、二次元コンテンツを現実から切り離し、二次元コンテンツたらしめているのではないかと考えます。

現実で起こることはすべて一人称視点での処理です。そこに演じられる余地は存在しません。自分で話すことは自分で考え、起こったことに対する解釈もすべて自分で正しく加え、かつその上で次の行動を起こさなければなりません。

一方で、演じられた空間というのは、他人事です。自らの人生とは違う空間で起こった、自分とは関係のない、どこかの誰かの語り、あるいは物語。

それを私達はどのように受け取っても自由。次の行動を起こす必要もない。

言ってしまえば、その受け取り方の無責任さが許容される、という点に現実ではない、ということの重要な要素なのではないか、ということです。神様にでもなったつもりで(第三者の視点で)、見下ろすように受容することが許される。

さてこれらの点を踏まえて、Vtuberは二次元コンテンツたり得るのか、ということを考えると、どちらとも言えない…どちらの可能性も秘めている、というのが結論になると思われます。

言ってしまえばガワとして絵を付随させた配信者/動画投稿者というのがVtuberの実態ですから、その運営の仕方によって二次元の軸にも三次元の軸にも、いかようにも動くでしょう。

もし、その付随させた絵のキャラクターを完璧に演じきり、ペルソナを剥がすことのないようなVtuberがいるならば、それは二次元コンテンツたり得る。

逆に、配信者の”そのもの”の人格が見えるようなVtuberは二次元コンテンツたり得ない、と私は結論づけます。

演じられていないものが無理、とわざわざカッコ付で書いたのは、この後者が無理なのだよ、ということを表すためです。

補足:二次元コンテンツは演じられている、と述べましたが、その逆を考えてみます。

演じられているものはすべて二次元コンテンツでしょうか。

例えば、演じると聞いて脳裏に真っ先に思いつくのは、劇や歌舞伎とかそういったものかもしれません。

こうしたものは二次元コンテンツとは一般に考えられませんし、普通に人間が出てきてるじゃァないか…と思いますが、ある意味、演じられていないVtuberなんかよりはよっぽど二次元コンテンツに寄っているものだと私は思います。

少なくとも、ここではない誰かの物語を三人称視点で観覧しているのですからね。)

現実逃避としての二次元コンテンツ

少し話題を変えます。

私達はどうしてオタクになったのでしょうか。

漫画やアニメが魅力的だったから?友達に勧められて?色々あるでしょう。

しかし私のような気持ちの悪いオタクに限っては、このような負の要因があると思われます。

現実逃避。それこそがオタクに、あえて言うならば二次元のオタクになる最たる要因。

どう足掻いても苦しく抜け出せない現実から、どうにか抜け出したいと願ったとき、そこに一筋の光明が見えた、きっとそれこそがオタクから見る初めての二次元コンテンツであったのではないでしょうか。

逆に、オタクは現実で苦しんだケースが多い、ということが言えたはずです。少なくとも私がオタクになった頃には。

いじめ、容姿、進学、失恋、諸々。苦しみ方は様々でしょうが、何らかの形で現実を嫌ったが故にそこからの逃避を求めた、ということがあるはずです。

オタクの多様化

しかしまぁ時代は流れて、色々なオタクも現れてきました。

私が小学生の頃はオタクなどと言えばほとんど迫害に近いような扱いを受ける存在でしたが、今はもう漫画・アニメを見ていてるというだけでは別にどうということではない。

全く喜ばしいことです。未だ風当たりは強かれど、社会の中には確実に二次元コンテンツが浸透しつつある。

それに伴って、”一般人寄りの”オタクも相当数現れてきました。

オタクに向けた文章なので一般人と書けばおおよそのイメージはつくはずですが、それではあまりにも投げやりなので、この文章に則って表現するならば現実を嫌わなかった人、とでも言いましょうか。

コミュニケーションも円滑に取れるし、性格も捻じ曲がることなく、社会に上手く適合しながら生活できたオタク。

Vtuberを、強いて言えば、演じられていないVtuberもまるごと受容できる層というのは、このような新しいオタク像に合致するような人々なのではないかと私は考えています。

現実を嫌う

具体的に現実が嫌いとはどういう状態なのか。

酷く言えば、生を拒否している状態と言えるかもしれません。

生きとし生けるものを嫌う。

自分を包む空間を嫌う。自分の存在を、その在り方を嫌う。

なぜこうも捻くれてしまうのかは私にもわかりません。しかしこのような私が存在していることだけは事実。

しかしなんとも皮肉なことに、二次元コンテンツは”現実”の介入なしには生まれない。それ単体で独立して生まれることはありえないのです。

アニメはそれが特に顕著。声優なしでは成立しないが、どう足掻いても声優そのものの存在は現実。

”中の人なんていない”というのは私のようなオタクにとってはもはや常套句で、現実の拒否を端的に表している言葉だと思います。

ここであえて言わせていただきますが、私は声優推しも嫌いです。先にわざわざ声優のオタクを二次元コンテンツのオタクから除いたのもこのためです。

声優嫌いとVtuber嫌いは本質的なところで繋がっていて、それがやはり現実を嫌う、ということなのです。

ある演じられたキャラクターの背後に、自らの嫌う現実を想定したくない、というのが私のようなオタクの心理。

声優の存在をわざわざ囃し立てるのは、むしろその現実側を持ち上げる行為にほかならず、とても許容できるものではない…Vtuberならなおさらです。(というよりVtuberならばそもそも中の人を詮索するのは文化的に嫌われていますし。)

しかし何をどうあがいたところで、演じられていることは逆説的にそれが演じられていない者によって成り立っていることを意味します。

もし二次元コンテンツがそれそのものとして独立する可能性があるのならば、演じる必要なんてないんですからね。

現実を嫌うということは、演じられたものの背後にあるものを拒否するということに他ならないのです。

それはVtuberだろうが、アニメだろうが変わりはありません。

オタクの矜持(笑)

オタクはなぜオタクたり得るのでしょうか。

こんなことを定義づけしてもどうにもなりませんが、きっと私のようなオタクは同じようなことを考えるに違いありません。

気持ち悪さ/面倒臭さ故にオタクたり得る、と。

なんらかのこだわりを持ってこそオタクだ、と。

故に何かを維持しようと躍起になる。

それが面倒なことになると、現実の拒否こそがオタクの矜持だ、とまで言い始める。

然るに、流行のVtuberなど絵のガワを貼り付けただけの配信者だ、現実など受け入れるに能わずと切り捨てる。

現実を嫌ったがためにオタクになったので、それを矜持とせざるを得ない哀れな人間。それが私のような人間。

ここまで書いてもはや明らかですが、Vtuberを躍起になって拒否している人間ほど捻くれて、やさぐれた人間でしょうね。

先に書いた”一般人寄りのオタク”が人間としてまともなのは疑うまでもないですし、そうでなくとも現実をこうまでして拒否するオタクはそう多くないでしょう。

もはやこれしか生きる道が残されていない、と窮地に立たされているオタクの負け犬の遠吠えこそVtuberの拒否であると言わざるを得ません。少なくとも私にとっては。

オタクの多様化で生まれた文化こそVtuber…なのかもしれない。

いい加減まとめに入ります

色々書きましたがこれ以上書くと煩雑になりそうなのでとりあえず簡潔にまとめますね。

要は

・私は現実が嫌いで

・現実とは二次元コンテンツの外と想定されて

・二次元コンテンツは演じられたものである必要があって

・演じられていないVtuberは受容できない

・それだけではなく現実が強調される声優文化も無理であり

・それを拒否することを矜持とするかのごとく躍起になっている

とこんなところです。今書いたことをまとめれば。

言いたいのはこんくらいなので以下オフレコのつもりで。

無責任と無配慮の極み

第三者の視点から眺めるをよしとして、責任を負わない。

演じられたものの背後を想定しないことってそれ…リスペクトがなさすぎない?

ちょっと自分で書いててもなんだかなぁと思いました。

普通に考えてアニメのキャラクターの裏に声優がいることは明らかだし、それを素直に受け止められればいいのでしょうが。

私のようなどうしようもない人間にはそれができない。

二次元コンテンツを独立して生えたものだとどうしても想定したい。

そんなあまりにも無責任で無配慮な願望が、現実の拒否を駆り立てているんだろうなぁ…と思わずにはいられません。

追記:(11/17 16時頃)

そういう意味で、Vtuberのオタクが出来る人間、そこまで行かなくても受容が出来る人間はより社会に適応的である、と考えています。

声優の顔出しすら無理!シャニラジは合言葉だけ速攻でスキップしないと吐きそう!なんて人間どこにいるんですかねほんと。

私はアイドル声優とかいうのが意味不明で、とても受け入れられない。

声優というのは演じる側の人間であり、そこで演じられたキャラクターの印象を損なうような素振りをすることはありえないことだ、と私は幼いながらに考えていたのですが最近はそうでもないので本当に驚いている限りです。

何に驚いているって、自分と同類のはずのオタクがそれをありがたがっていることに。もはや同類とは思えないレベル。しかしあいも変わらず、それを受容できる人間のほうがまともであり、私のほうが異常であるというのは自明です。

ドラマなどで見る俳優は名前ではなく役の名前で覚えることがほとんどです。その背後にある人格を見ていないので。アニメも同様。もちろん声優の名前を一切合切知らないということはありませんが、顔と名前なんか一致しない。

が、よく考えると俳優女優は結局トーク番組やバラエティ番組でその人格を見ているのであり、かつ受容している自分が認められるので、酷いダブルスタンダードです。要は自分とそこまで関連していない事象にはてんで興味がない。

一方で声優のラジオ番組とか、声優が顔出ししている番組とかは憤りを感じるレベル。

ええ、全く現実を直視していない、無責任で、リスペクトに欠ける発想であるということを私は了承しています。

現実を嫌うことなく受容できる人間は、現実を嫌う人間より社会に適応できるというのは考えるまでもありません。

現実を嫌う人間はほぼ確実に社会不適合者です。

普通に生まれて普通に発達すれば、そこまで現実を嫌う理由などどこにもない。

逆に言えば、現実を嫌う何らかのきっかけがあって、それがために不適応を起こしている。

ですから私がどれだけ戯言を並べ立てようと、私が異常者であるという独白を連ねているに過ぎません。

はっきり言って、物事を好く理由は数あれど、嫌う理由をここまで並べ立てる人間というのはろくでなしです。わざわざ人から嫌われるようなことを書くんですからね。適応的ではない。

それでも俺は書かねばならないと思ったのです。

それが俺のオタクとしての矜持(笑)だと信じて疑わないので。

異常者が異常者としてのアイデンティティを手放したくがない故の語りがこうして表出されるのです。

自嘲気味ですが決して私はこれを手放すつもりはないです。

もはや引き返せぬ、後戻りは出来ぬという決意をどこかに抱えてしまっているがためにこうした頭の固い、意固地な人間が出来上がる。

再三繰り返しますが、Vtuberのオタクが出来る人はある意味でより適応的であり、より進んだオタクであることは間違いがないでしょう。

むしろ、真にオタクであるならば、新しいコンテンツにも寛容であり、許容し、受容していくべきだと思わないではありません。

なぜならば、社会の側が二次元コンテンツをある種新規なコンテンツとして受容している背景がある以上、オタクの側がそうしたコンテンツを真っ向から拒絶することは、あの暗黒時代に舞い戻りかねない、ということを示唆しています。

その姿勢はかつての社会の側の姿勢と対して変わりはしない。

それでもなお、私はこうしたことを書かねばならない…と思うだけの理由があったからこそこれを書き連ねたのです。

ええ、もちろんこうも自嘲的なのは、言い訳でしょう。自分の論を批判から避けるための免罪符でしょう。返す言葉もございません。

現実を嫌うということは産み落とされた人間としての責務から逃れているということ。現実は直視しなければならない。一人の人間として、この大地を踏みしめなければならない。

しかしそれでも。

私のような異常者とて、こうした理屈を抱えながら生きているのだと表出せずに何が人生か。

これは義務であり使命だと信じています。オタクの矜持なんかじゃない。

こうして生きた人間がいるということの証としてのこの文章なのです。

だから誰かを誹謗中傷する意図なんて、本当にどこにもないということをご理解いただきたい。

ちょっとここで書いた内容はべきだとかあるべきみたいな話が出てきてしまいましたね。申し訳ない。

雑記

結局何が書きたかったんでしょうね。

Vtuberに関することよりもそれ以外の事のほうが多くなった気がするし、書きたかったこと書けなかった気がするし。

何言ってるんだこいつってところしかないし。

なんで唐突にこんなこと書いたかっていうとね、最近私超次元ゲイムネプテューヌシリーズにドハマリしてて。

そんでもってクッソ評判悪い最新作のVVVテューヌの限定版がクソ安くなってるから買ったわけ。

で、ゲームって閉鎖的な空間で動くVtuberならある程度演じられてるから受容できるんじゃない?って思いついたけど実際に見たらキッッッッッッッッッツ!!!!!ってなって必死にパンチラするねぷねぷを眺める作業を挟まないと精神が正常を保てなかった。

から書いた。

いや動機が最低。

だけどね、普段頭ごなしに嫌い嫌い言うのもなんだと思ったからさ。

本当は二次創作するにあたって、ってとこも書きたかったけど本筋から外れそうだから書かなかった。

Vtuberってアニメのキャラクターよりも、より強く”背後の”人格が意識されると思うわけ。

その人格の尊重なしにあんなことやこんなことできる?無理くね?俺は無理ってことも言いたかった。けどそれはなんかエロいこと書くときにしたいなって。

貴重な睡眠時間を削ってまで意味のないまとまりのない文章書いて何してんだろうね俺。

今朝の8時、書き始めたの3時間くらい前。

バカ。

もう推敲してないけどアップロードしますね。


最後に一つ。

これは私がこう感じるということを表現しただけであって、こうあるべきとか、こうでなければならないとかそういうことを強要する意図は全くありません。

だからこれはこうじゃないとかこれはこうだって言われても知りませんとしか言いようがない。

ここがわからないって言われたら自分が答えられる範囲で自分を考察しながら答えます。

以上。

本当に何が書きたかったんだろうね。

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