パンクの起源

池田ジョニー勇人大蔵大臣の発言から始まった米価高騰による米騒動は、予想外の展開を迎えた。彼の「貧乏人はパンを食え」という言葉に反発したパンを食っている人々、通称パンクたちが街中で暴動を起こしたのだ。私はそのど真ん中にいた。

「米VSパン」という言葉が街中に響き渡る中、私たちパンクはアナーキーな精神で立ち上がった。正直、パンの方が手軽で安いし、米よりも好んで食べていたが、今やその選択が我々のアイデンティティとなっていた。

暴動の最中、私は友人たちと共にフランスパンを武器にして街を練り歩いていた。フランスパンでしばくという行為が、今やパンクの象徴だった。頑丈なフランスパンを振りかざし、パン信者としての誇りを持って戦った。

ある日、春のパン祭りが開催されるという情報をキャッチした。これは大規模なパン信者の集会であり、我々のアナーキーな精神を示す絶好の機会だった。パン祭りには全国からパンクたちが集結し、その熱気はとどまることを知らなかった。

パン祭りのステージでは、私のバンド「テレサテンテンズ」もパフォーマンスを披露することになった。私はヴォーカルを担当し、ギターを持つ新しい仲間のエース・ユーレイと共にステージに上がった。オリジナルの「パン無き銀座の風景」この曲は後にイギリスに渡って「アナーキーインザUK」という曲になった。他にもパンの歌を熱唱しながら、フランスパンを振り回す。観客たちは狂喜乱舞し、その様子はまさにアナーキーそのものだった。

突然、清少納言のコスプレをした謎の人物がステージに現れた。彼女は「パンの力を信じよ」と叫び、アンパンマンの顔を持つ巨大なパンを掲げた。その瞬間、観客たちの興奮は最高潮に達した。私はその光景に目を見張りながらも、フランスパンを片手にさらに熱唱した。

しかし、私のフランスパンにはいつの間にか先っぽに穴あきができていた。それを見た瞬間、何かが私の中で変わった。戦いではなく、共存を考えるべきではないかという思いが芽生えたのだ。賢者タイムである。

その日の夜、私は米米派のリーダーのカールスモーキーと密かに会うことにした。彼もまた、米価高騰の状況に不満を抱えていた。「米VSパン」の対立は無意味だと感じ始めていたのだ。私たちはまだそこにいた清少納言と彼女のCCレモンを飲みながら、共存の道を模索し始めた。

こうして、米とパンの争いは徐々に沈静化していった。春のパン祭りは平和の象徴となり、私たちパンクもまた、穴あきのフランスパンを片手に新たな時代を迎えることとなった。

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