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障がいを感じさせない勝負師の物語は今まさに知ってほしい 『聖の青春』の話#終盤

序盤、中盤はこちらより

本記事は、2020年ビブリオバトル出場時のメモを元に書いています。時系列が異なる点についてはご了承ください。

終盤ーーーーー。

どんな仕事であろうと思い通りの結果を残せないと、どうしても何かのせいにしてしまうことがあります。自分にはこんなハンデがあるから。この日はこうだったから、と。皆さんも、そんな経験はありませんか?

私はあります、ありました。

最後に、この本の中にある私の好きな一説を読みます。
これはさとしが、自分の病気に関する考えを、彼の持病の当事者会むけに寄稿したものです。読み上げた文章を引用させていただきます。

「人と違った体験がいっぱい」
目の前の一局に全力を、は病気も同じ
将棋というゲームは頭の良さを争うゲームではなく、心の強さ、精神力の強さを競うゲームなのです(プロの場合)。負けそう、負けるかもと言った感情は戦いの邪魔なのです。この世界は体が弱いとか年齢がどうとか関係ありません。目の前の一局と全力をつくし負ければまた次の一局に全力をそそぐ。この病気もそういうところがあるように思います。
なぜこんな病気になってしまったのか、自分は運が悪いといった感情は体にも心にもよくありません。もっともっと体に障害がある人はくるしい思いをしているはずです。


「健常者よりたくさんの体験を」
ネフローゼということを短所と思うよりも長所と思い、人と違った人生、変わったおもしろい人生が歩める位の気持ちが大切だと思います。私自身も修行じだい、もし健康だったらと思うことはありましたが、ない物ねだりをしてもしかたがありません-----(続きは書籍にてお読みください) 。

自分への言い訳、ハンディキャップをさとしはこのように語っていたそうです。それも、健康状態が良くない状況で。腎炎・ネフローゼは身体障害と分類されていますが、聖の青春では障害が壁になったという表現は一切ありません。ただ将棋に没頭し続けた、将棋のために「生きた」勝負師としての彼のわずか29年にわたる半生が描かれています。

近年、多様性(ダイバーシティ)などの言葉をこの地域(会場と聴衆が釜石・近隣巡民のみなさまだったため)でも耳にするようになってきました。

同書の最後に彼の父が引用され、残されたこのメッセージは今を生きる、未来を生きる多くの方々に知ってもらいたい大切な言葉だと思います。

彼の人生、彼と師匠、家族、との関係。
ドラマチックな半生が詰まっているこの本、いいえ、村山さとしという人間との出会いがあなたの未来をよりよいものに導き、「生きる」と向き合い、不得手は強みにもなりうる、と考えるきっかけになると信じています。


ご清聴、ありがとうございました。

ーーーー終わり。

感想戦は、またいつか。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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