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結婚生活は失敗しちゃったけど、そのおかげですごいスキルが身についてた話。

ミョウガを切っていると思い出すことがある。
26年前の『新婚さん』だった頃のことだ。

冷奴のために用意した「みょうが」をみて、元パートナーさんが、急にめちゃめちゃ怒り出したのだ。理由を聞いてみると、「こんな切り方、ありえないだろ!」と、輪切りにしたミョウガをみて、激おこぷんぷん丸になっている。しかも、爆弾級の人格を否定する言葉を2つ・3つ投げてよこした後は、黙って毛穴から怒りを吹き出すような怒り方をしているだけで、なぜ「ミョウガの輪切りがダメなのか」などの説明は一切なかった。
これは、今でも思い出すほど強烈な思い出で、最近までミョウガの輪切りができなかったくらい衝撃のあった出来事だった。

今、考えると、当時以上に、薬味に輪切りがダメな理由は理解ができない。ただ、彼が本気で「怒り心頭だった」というのは、当時も今も理解できる。
彼にしたら、「怒りたくないのに、怒らせるお前が悪い!」と本気で思ってたんだろうな…。

24年の同居生活は、本当に大変だった。
ミョウガのように、彼の怒りスイッチONは「食事」のときが多かった。
ある時、好物だと思って作った煮物をだしたら怒り出したことがあった。怒りの理由は、「具材の切り方が大きすぎるから」。また別の日は、「かぼちゃの面とりがしてないから食べられない」等々、切り方のエピソードを上げれば、きりがないくらい出てくる。
しかも、最初の1~2年は、その理由を答えることも稀にあったのだが、そのうち無言になった。ある時、しつこく聞いてみると、「お前のために言わない、自分で考えろ!」と答えた。それ以降は、完全無言で怒りを毛穴から放出したり、たまに物にあったったりするようになっていった。

切り方ばかりではない。
熱い料理もダメだった。
おでん、ラーメン、茶わん蒸し等々、熱々がおいしいとされるものは、すべて冷ましてから出さないと、やはり無言でキレた。
私の実家でも様子は変わらず…で、と書きだしたら、愚痴が止まらなくなるので、この辺までで。

私は今、彼の文句が言いたかったわけではない。
彼の側からみたら、全然違うストーリーに見ていて、それを彼が彼の近しい人に話したら、「うわ!相手の女、めっちゃやな奴!」となる物語があるのかもしれない、と思うくらいに、見えているものが違ったんだろうな…というのを感じる。

彼の物事の捉え方は、同じ出来事を体験していても、取り方がこうも違うとは…ということが多すぎた。それが新鮮で、それが面白くて結婚してしまった感もあるが、生活するということは、目玉焼きにかけるものが塩か醤油か、でケンカしてしまうほどに生活様式の違いうのはデリケートだということを、婚前に全く気付いていなかった。

無意識に、お互いがお互いを否定してしまくっていたのだと思う。

例を挙げるなら…
私の実家では食事はコミュニケーションの時間で、楽しくおしゃべりしながら食事を楽しむものだったが、彼の実家では、食事は静かに手早く済ませるものという考え方だったらしい。あちらの親族で集うことなどめったになかったが、珍しく集まった親族と食事中におしゃべりをしたら、義父から「黙ってさっさと食べろ!」と怒られたことがあった。

この食事に対する姿勢の違いが、大きな溝になっていたのだと、今になって気づいた。同居していた後半の10年は、意識して彼と子どもたちを一緒に食事をしないようにしていたが、前半の10年で彼はとても心地悪い食事時間をさせられていたのか…と、この義父の一言から推測してしまう。

また、元パートナーの口の中は、感覚が過敏だったことが、子どもたちのは発達障害を向き合う中でわかっていった。「具が大きいと口に当たって痛い」「かぼちゃの皮は硬くていたい。だから皮は削いで、面とりもしてほしい」「温度にも敏感だから熱いものはダメ」等々、後からその原因がわかったこともある。
あるのだが、感覚の問題は、当人にしかわからないし、その時のメンタルヘルスの状態でも感じ方に変化がでるため、しばしば納得のいかない言動もあったので、お互いに嫌な思いを重ねてしまったのだと思う。

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私のパートナーとの生活は、悲しいことの方が多かった、と記憶している。
しかし、彼とのやり取りから学んだ対応は、子どもたちとの関わり方を改善する力となった。

自分が絶対に正しい という揺るがぬ姿勢を通された数々の体験では、洗脳されていく過程を疑似体験もしたが、彼は私を洗脳しようとしたのではなくて、本気で自分のマイルールが正しいと思って生活しているだけで、その正しさを自分が正しいと信じるやり方で教えてくれようとしていたのだと思う。
そう思うのだが、受け入れられるルールは少なく、だからこそパートナーとの関係は悪化していった。

だが、我が子がやっている理解に苦しむ言動については、この子なり意図を汲み取りたい…という欲求をもうようになったし、適切な距離を保ちつつ子どもたちの世界を感じられるようになってきていると自負している。

また、わが子だけでなく、仕事で関わる子ども達や、発達障害をもつ人々との関わりの中で、「なんて理不尽な!」と思うようなことを体験しても、「あー、あの人は、あの人の世界の中では真理と思っていることを体現しているのだなぁ…」と思うようになり、その時はイラっとしても、「あの人には、あの人なりの理由があるのだろうな」と本気で感じるようになったのだ。

こうした感覚は、元夫や発達特性のある子どもたちのバトル等々を繰り返した15年以上の月日があったからこそ根付いた視点だと思っている。

また、別居後に人づてではあるが聞くことになった彼の言い分から、彼が苦痛の多い生活を強いられてきたらしいことも感じていたことが分かった。
私と認識が大きく違うことはうすうす感じていたが、人ってやつは、自分のストーリーでしか物事を観れない生き物なんだなぁ…と痛感した。

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私はこうした経験をしたからこそ、「人それぞれイヤはものは違う」ということと「同じ出来事を体験しても、解釈は十人十色」ということを深く理解できたと感じている。
その結果、「その人を理解したければ、その人に聴いてみる」というごくごく当たり前のことを、普通にできるようになった。

子どもも同じだ。
だけど、そのことを、大人は、特に親は忘れてしまう。
子どもにも、ちゃんと子どもなりの考えはあって、子どもの真理はその子の中にある。だから、「その理由」はその子どもにしかわからない。
なのに、うまく話せないから、道理がわかってないから…と、大人は推測て「子どもの理由」を勝手に決めつけてしまうことが少なくない。

日本には、「自分がやられてイヤなことは人にしない」という素敵な思いやりがあるが、もう一段踏み込んでほしい、と常々思う。
「その人がやられてイヤなこともやらない」も必要なのだ。
自分がやられてイヤじゃないことが、嫌な子もたくさんいる。

子どものことは、子どもに聞く
だから、ぜひ、こんな当たり前のことをしてほしいと切に願う。

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わたしは、結婚生活は失敗しちゃったけど、そのおかげで「その人のことは、その人に教えてもらう」という当たり前だけど、とっても大事なスキルが得られました。

このスキル、家庭だけでなく、お仕事やっていく上でも、ちょー役に立っています。

おかげで、今では変化球を投げてくる方とのコミュニケーションも楽しくなり、ハプニング多めの毎日ですが、日々幸せなのでございますよ。

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