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「価値の恒常性」と 永遠より長い一秒

はじめに(いつもの如く、謎の上から目線で評価を落とす前書き)

 私の個人的な人生観について記したく思う。
 この世界に生きる方たちの人生の数だけ人生哲学はあるけれど、その中の一つとして、一つのメッセージとして読んでいただければ幸いに思う。
 この文章もnote投稿用に作成したものではなく、自分なりの思想といえば大げさかもしれないが、私を形作るデザインとしての一部である。
 20世紀から延々と人生について自分なりの考えをまとめたり、編集したり、更新したりしている。もちろん、今現在も人生とは何か、という定義なり、考えなりを時折まとめているし、死ぬまで続けるライフワークにしている。この文章はその中の一部を抜粋したものだ。
 誰にも需要はないだろうけど、この「価値の恒常性」以外は公表しない。自分のためにあれこれと思索を練っているだけで、自分の思想は自分だけのものにしておきたいから。残りはすべて墓場まで持っていくつもりだ。
 以下に、この世に生きた証として、その「価値の恒常性」と名付けた部分を転載しておきます。このメッセージが何かの役に立てたら幸いです。

■メッセージ「価値の恒常性」

 生きている間に自分が健康を損なったり、不運にも障害を抱えるほどであったり、周囲から冷酷な扱いを受けたりしても、私や貴方の価値は不変です。
  私や貴方に、お前なんかダメなやつだ、と誰かがたとえ言ってきたとしても、そのことで私や貴方の価値が下がるなんてことは決してありません。
 これは「価値の恒常性」とでもいえましょうか。 昔の私や貴方と、今の私や貴方は連続してつながっており、そこに断絶はないのです。
 小学生の頃の私たち、中学生の頃の私たち、高校生の頃の私たち、進学していれば、大学生や専門学校生の私たち、就職していれば、社会人としての私たちは昔と同じ存在で、立場こそ変わりはしたものの本質は全く変わっていません。全く目減りしてはいませんし、逆に言えば、出世していても、価値が増えたわけではありません。
  現在の私や貴方は、昔の私や貴方が年齢を重ねただけの存在で、本質は不変で同じです。 だから、今現在、病気や何かつらい出来事に遭遇しても、私や貴方の長い歴史の中での出来事の一欠けらにすぎず、それほど一喜一憂する必要はありません。
  人間関係がうまくいかなくても、仕事がうまくいかなくても、恋人とうまくいってなくても、貧しい経済状況であっても、将来に希望が持てなくても、私や貴方の価値がそれで決まるわけではありません。
  昔、幸せだったころの私や貴方と、今つらい状況に置かれている私や貴方は、同じなんです。 状況は確かに変わっているかもしれません。でも、主人公である私や貴方は同じです。自信を失う必要もないし、気兼ねもする必要もありません。
 「昔と違って、年を取ったから…」というのはナンセンスです。加齢しても、私や貴方が他の誰かに変わったりするでしょうか。 以前より若くなくなって、集中力や体力は落ちたかもしれません。ですが、私や貴方は根本的には何も変わってないはずです。
  人は成長する中で性格すら変化するかもしれませんが、私や貴方は昔の自分のことをちゃんと覚えているはずですし、なぜ性格が変わったかのかも、ご存知のはず。 よく「あの時、人生が変わった」とか「もう昔の俺じゃない」とかいうセリフがありますが、たんなるレトリックです。言葉遊びです。 表面上は変わったように見えるかもしれないけど、心の奥底が別人になってしまうなんてこと、ありませんよね?
 解離性同一性障害ですら、日本ではあやしまれている病気です。 誰かにつらい目にあわされようが、踏み付けられようが、虐待されようが、私や貴方は永遠に、私や貴方であり続けます。
 誰であれ、嬉しかった時、楽しかった時の記憶はあるはず。そして、それを経験したのは私もそうですし、貴方もそうですよね。 年齢を重ねても、病に罹患しても、人生が思い通りに行かなくても、私も貴方も昔と同じ。幸せだったころの私や貴方。価値なんか下がらない。だから、卑屈にならなくていい。
  私や貴方は、私や貴方であるだけで十分で、他の人に認められなくてはいけないからと、あくせく努力しなくてもいい。 何もしなくても、価値は変わらないし、何かしたとしても、価値は上がったりはしないのです。 (だから、自分は努力したから、とか、自分は優秀だから、と主張して、他の人に自分を認めさせようとしてはいけない)。
  また、理想の自分とは何か、という問いには昔から今まで様々な人がいろんな形で答えていますが、個人的見解を述べるのなら、その人がその人らしく生きることだと思っています。
  努力したり、向上心を持つことは社会通念上、素晴らしいことです。 でも、それが作り物の自分を演じることなら、心身の健康を損なうだけのむなしい試みで、自分に嘘を吐き続けて人生を終えるだけです。 そういう類の努力なら、しない方がいい。自分が自分であることだけで十分で、それで天寿を全うするのが正しい生き方だと思っています。
 私や貴方は、努力しないといけない、頑張らないといけない、と学校や会社では教え込まれたり、奨励されたりしますが、あまり真に受けない方がいい。
  心身を壊すほどはやらない方がいい。立派で輝かしい虚構の私たちよりも、自分の気持ちに正直な私や貴方である方がいい。 努力はしたいときにするのが正しくて、強制されてするのは不真面目、不誠実とさえいえます。
 怠けて生きようなんて主張しているわけではありません。自分のキャパシティを超えるような努力は自分を壊すだけの不毛なものだと言いたいのです。
  自分に正直に生きることはダメなことだと、他の人から度々説得されがちですが、自分に嘘を吐くのは自分を壊すだけ、自分を大切にしない不真面目な態度です。
 私たちの人生は私たちのものです。私たちを大切にするのは、誰でしょうか。他の人に期待してはいけません。自分を救うのは、自分だけです。 自分らしく生きていきませんか。
  今一度、このメッセージをよく考える時間を持っていただけたのなら幸いに存じます。

おわりに(過去の出来事はその人にとって永遠であり、真実になることについての付記)

 読者受けしない文体に定評のある、あをゐです。noteには個人的に大切なことを書いております。「いいね」や「スキ」をしてもらおうと思ってはいなくて(いや、してほしいけどさ…)、この世をいつ去ってもいいように遺言代わりに投稿しております。
 何故「価値の恒常性」と大上段に構えて自説を展開したのか、記しておきます。
 正直に書きます。昔の自分と今の自分が断絶している気がしているからです。時間軸上は昔の自分が今の自分に繋がっていることは本当ですが、あまりそう思ってないのです。
 健常者だった中学から高校辺り(少なくとも向精神薬を服用せずに生活できた)と現在の境遇(向精神薬中毒。服用しないと、しんどくて生きていけない)との間にくっきりと境界が存在している気がしております。
 なので、その反発心から「価値の恒常性」などと格好つけている自分がいたりするのです。わざわざテーマにしているあたり、防衛機制の反動形成じゃないかと思っております。
 中学時代が一番楽しくて、高校は暗黒時代で精神病みました。
 あんな高校時代が嫌で仕方ない半面、もう一度戻りたいという気持ちが混在しております。自分にとって不快だった時期ですが、私の青春時代はそれしかないからです。最悪な状況と環境だったけれど、私の青春時代はそれしかないから。
 松任谷由実あたりが「卒業」という歌を歌っておりますが、女性の立場から好きだった男の子は青春そのものらしいですが、男性の立場からもやはり好きだった女の子は青春そのものですよ。どんなに毛嫌いしていた時代でも、好意を寄せていた女子の同級生や先輩方は永遠に忘れられないです。
 些細な出来事、一瞬だったけど、それは、一秒でも永遠より長いのです。いつものように、体裁のいい格好よろしい話ではなく、本音を書いております。いつ死ぬかわからないからね。最後には本音を残しておきたいのです。
 どうしようもないことに、高校生だった頃の思い出は、同じ高校の女子生徒たちだけという、しようもない思いでしかありませぬ。
 知り合いだった同級生の男連中のことなどどうでもよくて、恥ずかしいので詳細は書きませんけど、女の子のことしかないな(笑)。
 もちろん、仲良くしてないし、恋愛とは程遠かったけど、今頃誰かと結婚して幸せな人生を送ってるんだろうな、と思ったりしてます(;´∀`)
 まあ、私というか、僕のことなど忘れてて、記憶の片鱗にもないだろうけどね…。でも、私は忘れられない。
 多分、誰にも共感されないまま、この思い出も墓場まで持っていくことになるでしょう。最低だった高校生活だけど、私にとっては掛け替えのない青春だったことに変わりはないので。そして、私がこの世で掴んだ過去は永遠に真実であり続けるから。私にとっては、ね。
 過去は単なる出来事、過ぎ去った他愛もない出来事に過ぎないけど、その人にとっては、この手で掴んだ真実として、いつまでも残る。
 嫌な思い出の中にでも、少しだけ輝いた瞬間がある。
 一生独身だけど、思い出くらい、いいじゃないですか。
 結局、あの世に持っていけるのは、思い出だけだから、ね。
 好きだった女の子に幸あれ。

了 

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