栫伸太郎から見た『流れる羊』

  社会との接点を見失った孤立した人間(最近は「無敵の人」という言葉がある)が、障害事件を起こしたり、殺人事件を起こしたり、あるいは自分の”理想”のためのテロリズムに走ったりする。
 これらの行為は、社会の中で自分の位置を確かめようとする欲求に突き動かされているという点で、逆説的に極めて社会的だ。
 実際、「無敵の人」たちは全く無敵ではなく、「現実世界の中で自分の存在が無視されることの恐怖」から全く逃れられていないどころか、誰よりもその”敵”を強大に感じている。
 何らかの社会的な役割を担わなければならない、社会にとって何らかの意味を持たなければならないという脅迫観念に縛られる苦しさは、しかし、このような人たちだけでなく多くの人に共通するものだろう。
 いま社会的な役割、意味と表現した事柄をここからは(例えば鈴木志郎康「闇の言葉に向かって」での言葉遣いに倣って)「言葉による支配」と言い換えてみよう。ここでの「言葉」は他人に情報を伝達するためのものという意味での、狭義の「言葉」だ。
 私たちはただの身体としてこの世に生まれでたはずだが、名前をつけられた時点から絶えず言葉に縛られ、他人から自分に与えられた言葉(職業名や役職やキャラクター)や自ら自身を規定する言葉(アイデンティティとか)の意味を充足させるように行動を選択するようになる。社会は私たちの身体よりもずっと、私たちの名前、言葉の方に興味を持っていて、自分の身体を差し出すよりも、自分に対する言葉が記された身分証や名刺を見せたほうがよほど信頼されてしまう。
 このような徹頭徹尾意味の言葉によって支配された社会から逃げるための方法として簡単に思いつくのは、純粋に身体同士のみの関係である(ように見える)性愛の世界に逃げ込むことと、死ぬことだろうか。(『流れる羊』にはそういう側面もある。)死ぬことはまた、今年の共通テストで太田省吾が言っていたように、自分の人生を枠付けする行為でもあり、自死(やそれに準ずる行為、例えば志願兵になって戦場に行ったり、拡大自殺をするようなこと)は、自分の完結した人生が社会のどこかにしっかりと位置づけられるという幻想を持つために利用されている側面がある。つまり死ぬことで、言葉の支配する社会の中での自分の意味に希望を持つと同時にその社会から抜け出すことができるということになる。
 しかしこれらのどれも、結局は「逃げる」ことでしかないのだ。社会を支配する言葉の喧騒を前提として自分のほうがそこから身を引く行為でしかない。(性愛にはこのようなネガティブなイメージのみを持つべきでないと思うし、持っていないが、上に述べたような消極的な仕方で利用されていることは珍しくもないだろう。)逃げではなく本当に「無敵」であることとは、このような言葉による支配を無化できる状態にいることなのではないだろうか。自分に降りかかる言葉の意味のうるささの中で、それを気にしない、縛られない静寂を自分の中に持つことで、本当の意味での自分を、つまり自分の身体を十全に癒すことができるのだと思う。どのようにしてそんな状態になれるのかは別として。

 と、ここでようやく『流れる羊』の話になるのだが、この作品では登場人物のそれぞれがいろいろな言葉に縛られたり、その言葉から解放されたりしているが、その拘束と解放のバリエーション、ここまで使った言葉でいえば喧騒と静寂のグラデーションがかなり細かく描き分けられており、それが作品の魅力の一つとなっていると思う。
 戦争という大きな社会的事件の最中にはあるが、まだ被害も僅かで国民全員が危機意識を持っているような状況でなく、登場人物の多くにとっては「すぐ終わるかもしれない」今はまだ遠いところの戦争にすぎず、その中の自分の役割のようなことについても深く考えていない。そんな中でも、主人公は、無職の、うだつのあがらない生活の中で、自分の役割を必死にそこに見出そうとしている。(冒頭に述べた「無敵の人」とよく似ていると思う。)静かな田舎で、ひたすら都会で起こっている戦争の喧騒に耳をすまし、戦わないといけないと思っている。彼にとっては「世界」とか「戦う」という言葉が自分を規定する言葉として自分の中で切実にけたたましく鳴っているが、他の人々にとってはそうでもない。これは主人公から見た言葉の比重だが、他にも「田舎」や「普通」「優しさ」「裏切り」などそれぞれの言葉が、ある人間を縛ったり、ある人間には聞こえなかったりして、それぞれの登場人物の複雑な自意識を形成している。
 この、各人間にとっての言葉の軽重こそが人間関係の歪みを生み出したり、ドラマを前に進めたりしていて、『流れる羊』の中では一見摩擦ばかりが起こってしまっているように見えるが、他人の、ある言葉に対する態度が、自分をその言葉から解放してくれたという場面も小さく描きこまれているのだと、最近、この原稿を書き始めてから思い始めている。
 他人と関わることで起きる自分の中の言葉の意味の変容と溶解。とこう書いてしまうと陳腐だが、そういうことを考えながら残りの稽古に向き合っていきたい。

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