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そこからもう1つ問いを立てる。

今日は、ひとのことアカデミー応用発展クラス土曜夜開講の日。

テーマは「わたしの中のわたしとつながる」

これがまた今の私にドンピシャなテーマだった。

例えば、「何に腹が立つか。具体的に書き出してみよう。」という問いがワークの中であった。

最初、私は、段取り通りに物事が進まない時と書いた。

が、これは質問の答えになっていない。

質問は、”何に”腹が立つのか?だ。

段取り通りに物事が進まない”時”を聞いているのではない。

段取り通りに物事が進まないことに腹が立つ。

これならまぁ、まだ当てはまる。

が、段取り通りに物事が進まないことに腹が立つ理由にはなっていない。

簡単な質問な様で奥が深い。


さて、そんな様に自分の感情・潜在意識に触れる問いと講師あっこの問いかけが相まって、たどり着いた私の情熱を注いでいること。

それは、【人生の質を上げることに情熱を注いでいる】
ということ。

私は、想いを馳せ、考え、計画し、実行し、振り返る時間があること、その余白があることに喜びを感じている。
そう言うと、忙しく動き回っている感じがせず、怠けている様な感じがする。楽は苦のタネ、苦は楽のタネ。という家訓・部族的信念で育った私には”怠け者”の3文字が浮かび、ぎゅっと罪悪感を感じる。

そこで思い出すのは、最近読んだクリシュナムルティの「学校への手紙」に書かれていた一説。

怠慢は無関心、無精です。無関心というのは、物質的な有機体や心理的な状態に対する、そして他人に対する無関心です。無関心には冷淡さがあります。この段階では、精神は不活発で、思考の活動は鈍く、近くの素早さはなくなり、鋭敏さなどは理解できない事でしかありません。たいていの人は、ときに<勤勉>なこともありますが、ほとんどのときは<怠慢>です。この
二つの態度は、本当は反対の事がらではありません。もし反対の事がらでは
ないとすると、勤勉はなお怠慢の一部なのであり、それゆえ<真の勤勉>なのではありません。

私がならねばと思っていた「勤勉」は、彼に言わせると「怠慢の一部」にほかならないそうだ。私はこの考えにしっくりきている。
「真の勤勉」とは何か?

それは自分の美点を発揮し、他者の役に立つこと。

だそうだ。

この自分の美点を発揮する、これがどんなことか?今日の自分には残念ながら、実感レベルで体験することが叶わなかった。

自分の美点を発揮し、他者の役に立つとはどの様なことかを知る機会を与えてください。
そんな祈りと共に今日を終わろう。

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