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「いさぎ悪い」という表現を考える

先日、ウェブ上で「いさぎ悪い」という表現を見た。試しにGoogleで検索して見ると、よく聞くことばの間違いとして取り上げられることもあるようだ。

私が「いさぎ悪い」を見ておもしろいと思ったのは、ちょっとおかしい表現だなと感じたものの、その意味は十分理解できることだった

「いさぎ悪い」という表現が用いられるのには、次のような推論が関わっているのだろう。

(1) 「いさぎよい」という語を、「いさぎ」+「よい(良い)」と分解
(2) 「気持ち良い」に対して「気持ち悪い」のような表現があるならば、「いさぎよい(良い)」に対して「いさぎ悪い」があってもいい

もちろん、「いさぎよい」は漢字を用いれば「潔い」となることからわかるように、本来「いさぎ」+「よい」という組み合わせから成り立つものではない。だから、日本語として間違いだと言うことはできる。ただし、同じような間違いだとしても、次のような間違いは起こりそうにない。

(3) 「誇らしい」という語を、「誇」+「らしい」と分解
(4) 「男らしい」に対して「男っぽい」のような表現があるならば、「誇らしい」に対して、「誇っぽい」があってもいい

「いさぎ悪い」はつい間違えて言ってしまう人がいたり、もし言われたら違和感を覚えつつも意味が予想できる(少なくとも私にとっては)のに対して、「誇っぽい」は間違えることはなさそうだし、万が一言われたら意味がわからないだろう。(1), (2) と (3), (4) の関係は同じであるように見えるのに。こうなると、「いさぎ悪い」が生まれる何かしらの要因があるのではないかと考えたくなる。

「いさぎよい」が誤って分解され「いさぎ悪い」を生む背景には、「往生際が悪い」という表現が関わっているのかもしれない。各種国語辞典には「往生際」という項目があり、「あきらめるときの態度や決断力」などの意味が載っている。「往生際が悪い」という形で用いることが多いが、「往生際が良い」と表現することもできる。そして、次の場合は、「往生際良く」と「潔く」が似たような意味を表している。

(5) 私は、彼ほど往生際良くあきらめることはできなかった。
(6) 私は、彼ほど潔くあきらめることはできなかった。

意味が似ていていることから、ことばの成り立ちの上でも似ている、つまり「往生際」と「良い」が結びついているように、「いさぎ」と「良い」が結びついているかのように感じても不思議ではない。そして、「往生際」が「悪い」と結びつきやすいことから、その類推として「いさぎ悪い」が生まれたのではないだろうか。そうすると、このような分解によって生じる「いさぎ」という要素も、「往生際」のようなものとして存在しても悪くない気がしてくる。このような類推は、「潔い」という漢字表記が無かったら、もっと広まっているのかもしれない。

実際、「いさぎのよい人」とか「素直に誤りを認めるなんて、いさぎがいいね」といった表現もGoogleで検索すると見つかるが、これも「往生際のよい人」「往生際がいい」と同じく「の」や「が」を挟んでいることから、「いさぎ」という要素が存在するかのように扱われているのがわかる。

「いさぎ悪い」や「いさぎがいい」という表現は、「潔い」を分解してしまった結果生まれたという意味で、間違った日本語であるとされる。ただ、このような間違いが、似た意味の表現に基づく類推から生まれたものだとしたら、同様のことは言語に広く見られると言える。実際、そのような本来とは異なる分解が定着してしまった例もあるし(英語のapron(エプロン)は、a napronとして用いられたものが誤ってan apronとして分解され定着したもの)、ことば遊びの資源として用いられることだってある(日本独自のパンを作ることを目指す話を描いた漫画に「焼きたて!!ジャぱん」がある)。「いさぎ悪い」のようなちょっと変わった表現に出会って、ことばの仕組みについてあれこれ考えることができるのは、とても楽しい瞬間だなと思う。

[補足]本記事は2011年12月に筆者のブログで公開した同名の記事に若干の修正を施したものです。

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