『あかり。』#10 金時パンとショートピース 相米慎二監督の思い出譚
神戸屋の金時パンを相米慎二監督は好きだった。
いや、仕方なくなのかもしれないけど。その頃、よくお使いに出ると買ってきたのが、そのパンだったのだ。金時パンは、少しだけ甘いが、アンパンほど甘くなく中途半端な菓子パンだ。いくつか買ってきたパンの中からいつもそれを選ぶのは、やはり嫌いではなかったのだと思う。
ときどき(それが神戸屋ではなくても)、たまたま入ったパン屋に金時パンがあると、ちょっと嬉しくなって買ってしまう。
もう、一緒に食べれないのが無性に淋しくなる。そんなことをもう20年も続けている。
煙草はショートピース。なくなりかけた頃を見計らって、新しいのをそっと机に出すことも覚えた。
最後の煙草をくわえて、箱を握りつぶす。火をつける。
煙草が短くなったころに、古い箱を片付け、新しいのをさりげなく置く。
監督は小さくうなずいて、新しい煙草の封を切る。
お互い特に言葉は交わさない。
そのタイミングがうまくいくと、ちょっと嬉しかった。
僕は、監督が史朗さん(オフィスシロウズの社長)と囲碁を打ち終えるまで、少し離れたところにいてぼんやりと待っている。
すべてが懐かしくてたまらない。
そうだった。撮影のこと……。
家具売り場に、新しいソファを選びにきた夫婦、それが中井貴一さんと藤谷美和子さんだ。役名は特にない。CMでは名無しはよくある設定だ。俳優がなぜかそのまま俳優として出ている。
ハワイ旅行をやめて、クルマを買おうと妻が言い出す話だった。
監督は、セリフのきっかけや、言い出すタイミングや、ちょっかいのかけ方とか、妙なところに熱心だった。まるでセリフになど、なんの意味もないんだとばかりに、言う前の感じと、言われた後のリアクションにこだわっていた。
中井貴一さんは、相米演出に慣れているので、すごく引き出しを開けながら状況を楽しんでいた。ここは<受け>の役割に徹していた。
藤谷さんの<感じ>を引き出すのに、監督は時間をさき、言葉を投げかけていた。
具体的には、ソファに少し離れて座っているよそ見している夫を自分の方に振り向かせる芝居だ。声をかければ簡単なことだ。だが、監督は別の方法を探せと言う。いろんな手を使って夫を振り向かせようとする妻。その様子がかわいらしくなるように、あるいはユニークであることを監督は待っていた。
多分、初めて会う藤谷さんと、監督はカメラを挟んで対話をしていた。監督はモニターはいっさい見ない。見るのは俳優だ。見ているのは、俳優がなにをするかだけだった。
待つ。
これが一番むつかしい。
指示をすれば簡単に終わる。たぶんそれでは意味がないと監督は考えている。あくまで俳優が、自発的に捻り出した芝居でなければならないと考えている。
それは見ていて、すごくおもしろかったし、演出家の投げかける(直接的でない)もの言いで役者が微妙に変化していくのを生で体感するのは、すごく勉強になった。
しかし…それでいて、ストップウォッチを見るたびに愕然としていた。
まるで、尺(秒数)に入ってない……。
このワンカット芝居をどうしたらいいんだ……。
監督はCMが、15秒・30秒なことをすっかり忘れているかのようだった。
それにスタッフの誰もそんなこと気にしていない。
監督と役者が作った世界をニコニコしてモニターで見ている。
二人の芝居の呼吸もさらに良くなってきたところで
「よし、いいことにしようじゃないか」
監督が笑いながらOKを出したテイクは、ぜんぜん尺オーバーだ。
もう、言うしかなかった。
「監督、尺に入ってないんですけど……」
前回もそうだったが、これを言うのは本当に嫌な役目である。 相米慎二監督がいったんOKを出したものに、もう一度お願いします、と助監督が言っているのだから、恐れ多いことだった。
「そうなの?」
「はい…すいません」
今のテイクを生かすのなら、このアップと、このアップが必要で……などと、しどろもどろで説明する。監督は、仕方ねーなぁー、みたいな感じで聞いてくれる。引きの芝居の短めのも欲しい。
CMの悲しいところで、尺に入らないものはオンエアできない。編集でどうにかするにも限界があるのだ。
僕の役割は、監督の演出を最大限活かす<仕上げ>にすることだ。
監督はすごくやさしい人だから、そういうことを進言しても怒らなかった。役者に冗談めかして「尺に入ってないんだと。今の感じでいいが、まあ、もう一度やろうじゃないか」と明るく言って、場を和ましてくれる。
役者が気を利かせて、短めの芝居をする。すると、そういう短絡的な芝居には監督はOKを出さないのだ。このあたりが、イージーに物事を運ばない人だった。
芝居を作ることに手を抜かない。その様子はスタッフに必ず伝わるものだ。
そうやって背中で作品を引っ張ることが、監督たる役割に必要なことを見せてもらった。
監督も見られているのだ。大勢のスタッフに。そして、役者に。
たとえ、それがCMだとしても。