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『あかり。』 第2部 #60 焼き蛤・相米慎二監督の思い出譚

「焼きハマ食いに行かないか?」
と、言われたので、
「はい」
と、答えた。元より、僕に選択肢はない。

監督が向かったのは住吉のどこかで、今となっては場所も覚えていない。
通り沿いに赤提灯が一つ、裏ぶれた店に見えた。
中に入ると、薄暗く、壁沿いに大きな瓶に詰められた何かが並んでいた。梅酒を漬けておくようなものだったが、中身は梅ではない。なんだかわからない。

「ここゲテモノ屋だから」
と、薄笑いを浮かべた監督は、
「焼きハマ、ちょうだい」
と、無愛想な主人に言った。
主人は頷き、炭火の前に立つと、蛤を並べて焼き始めた。
あといくつか注文したようだが、もう覚えていない。
焼き蛤は、かなりレアな状態で、貝の蓋が開くや否や、トングで目の前に出される。それをすかさず食べるのがルールのようだった。

「ストップって言わない限り、ずっと焼かれるからな」
「え、そうなんですか?」
「ああ……」
監督は、嬉しそうに蛤を食べ続けた。

蛤が好きか嫌いかと問われれば、どちらでもないのが正直なところである。吸い物に一つ二つ入っているのは嬉しいし、蛤のパスタにごろごろ入っているのも嬉しい。しかし、蛤だけ素焼きとなると話は変わる。

蛤だけを大量に食べ続けるのは苦しい。何しろ、ほとんど生みたいなものなのだ。それが此処の流儀だった。
7月の蛤は、身がぷっくりとしてかえって美味しいそうだ。春のイメージだったが、通の人たちはそんなものなのだろうか。

油断して雑談していると、目の前で蛤は永遠に焼かれ続ける。こんなシステムは初めてであった。こちらの食べるペースはまるで関係ない。あくまで焼く主人のペース、蛤の焼ける具合次第なのだ。

だいぶ食べ続けたので、
「僕はもう結構です」
と、言うと、
「もういいの」
と、監督は言った。
監督はその後も焼き蛤を食べ続けた。

客の誰もいないカウンターで、僕たちはいくばくかの酒の肴と蛤で夜を過ごした。
あの店、どうしたろう?
まだ、主人は生きているだろうか?
ふと、そんなことを思った。

あの夜、僕は人生で一番蛤を食べた。
そう言うと、帰りがけに、監督はさもおかしそうに笑った。

そういえば、あれから何十年も焼き蛤を食べていない。


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