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性が抑圧されてもいいのですか?

りなるさんがまたドえらい記事を書かれましたね。

6,000字を超える大作ですが、内容はその何倍もの濃密さがあります。
これを読んでから私はしばらく途方に暮れていました。
これを元に何か書きたくても、元記事が壮大かつ鋭利すぎて、何も書けないのです。

一文で言えば、
「結婚という制度は生物としての人間に適していない」
となるでしょうか。(もちろんこれでは全然足りません。りなるさんの全文を読んでください)

結婚が無意味、そのうえ有害となったわけは 2つ。
✅結婚は、近代以前の「交換」という意味を失った
✅さらに現代では、結婚が性愛の足枷になっている

元来部族間を結ぶものであった結婚が、今では親族を分断するものとなっている。しかも、永遠の誓いなどという美名のもとに、個人の自由な性行動を禁じるような風潮が蔓延している。

結婚という社会制度によって、性が抑圧されている。

性の抑圧は、結婚制度の厳格化だけでなく、様々な方面で進行してきました。
例えばコンテンツです。
以前は、ごく普通の映画にも必ず濡れ場(←死語?)があり、女優は脱ぐのが当たり前だった時代がありましたよね。
まちの本屋さんには、エロ本が堂々と(ビニールに包まれてはいたけれど)並んでいましたよね。
日曜洋画劇場というゴールデンタイムの番組で、『エマニエル夫人』が放送されていましたよね。

マスメディアによる性の抑圧も、この 25年ほどでパワーアップしました。
不倫を悪として叩きまくり、著名人の性的スキャンダルや未成年の淫行が毎日のようにニュースになっています。
そんな記事を日々読まされていると、性そのものが悪いことであるかのような気がしてきます。

そしてビジネス。
日本は性産業が異常に発達した国です。
政府公認の遊郭があり、黙認の岡場所があり、それらが廃止された後も世界随一の性産業を誇ってきたお国柄。
ところが、2000年代に当時の都知事によって新宿歌舞伎町の浄化が行われたように、多くのエリアで店舗型の性ビジネスが廃業に追い込まれました。

さて、このような性の抑圧によって、社会はクリーンになり、人は性行動をやめたでしょうか?
皆さんご存知のとおりです。
地下に潜っただけですよね。

表社会のコンテンツから性的描写が消えたかわりに、ネット上にエロ動画があふれるようになっただけ。
歓楽街から風俗店が消えたかわりに、デリバリー型やアプリで会うスタイルに置き換わっただけ。

不倫は水面下で増えているそうです。
不倫といえば、従来は職場で発生するのが主流でしたが、周囲の目が厳しくなったことでその王道パターンは廃れ、今はオンラインで知り合う専業主婦の不倫が激増しているのだとか。

人間の性行動を抑え込むのはムリなんですよ。
しかも、抑圧すればするほど、危険な方向へシフトしていく。
なぜ危険なのか。
それは手軽すぎてしまうからです。

近所の本屋でエロ本なんか買えないし、親がいる実家で『エマニエル夫人』なんか観れないじゃないですか。
こういったハードルが重要なのです。
かたや、電話機一つでいつでもどこでもエロ動画が観れたら・・・
歯止めが利かなくなりますよ。

性ビジネスにしても、店舗型だから歯止めが利くのです。
「よし、行くぞ!」と気合を入れなければ行けませんからね。
それが電話一本で向こうから来てくれたらヤバいでしょ。

不倫もそうですね。
相手が職場の同僚や上司だから安全なんです。
タガが外れることはないでしょうから。

つまり、よかれと思ってやっている社会のお掃除は、性行動をますます潜伏させ、歯止めの利かないものにしてしまっているのです。

性的なものを批判する人は、自宅の庭先だけをキレイにして悦に入っているようなもの。
このテの人間が社会をダメにしているように私は感じます。

私の第5番目くらいの故郷であるアムステルダムには、市の中心であるダムスクエアのすぐ近くに Red Light District と呼ばれる ”人のショウウィンドウ” 地区があります。
そこは、まったく隠されていません。
市民も観光客も普通に歩く通りです。
子供が通りかかったときにだけ、中の人がシャッとカーテンを閉じます。

他方、出張で訪れたジェッダ(サウジアラビア)では、売店に並んでいる『コスモポリタン』や『VOGUE』といった雑誌の女性写真の顔・腕・脚などが黒インキで塗りつぶされていました。

この 2都市は両極端の例なので、日本のポジションは両極の間のどこかになるはずです。

すでに地下に潜ってしまった性を再び地上に呼び戻すのは、地下を潰さないかぎり不可能でしょうね。
それに、地下を取り締まっても、そのまた下に潜っていくだけでしょうから無意味です。

私たちはもう、抑圧された性を取り戻すことはできないのだろうか。

詳しい説明は省きますが、1990年代に大きな時代の転換点があったのです。
性だけでなく、遊び方、飲み方、人と人の距離感など、いろんなことがユルかった最後の時代が 1990年代でした。

1973年以前に生まれた人(現在のオーバー50)は、この時代をリアルに体験しているし、当時の記憶を残していると思われます。
この世代の人たちは、ユルかった時代の空気を己のコアに持ちながら、ユルさが失われていった時代を相対化する視点を持っています。
(それを感じ取れない人がいろいろやらかしているのが昨今の状況)

オーバー50 はそう簡単に性の抑圧に屈しません。
マインドの中核にユルい時代の感覚があるからです。
時代の変化を感じつつも、自由恋愛などを許容する素地を具えている。

問題はアンダー50、つまり、ユルい時代の空気を吸ったことがない世代。
お行儀よくオシャレに遊ぶことをメディアによって教育された世代であり、浮気サイテー、二股サイテー、ナンパサイテー、いちずサイコー、純愛サイコーといった、ドラマなどのコンテンツシャワーを浴びてきた世代でしょうか。

性を抑圧されたアンダー50 の洗脳を解くべきだと思うんです。
といっても難しいだろうなあ。
石田純一が叩かれまくってた頃に成人した世代だもんね。

「ユルい時代」と何度も連呼したけど、決して性にだらしなかったみたいな意味ではないんですよ。
細かいことは気にしない、かっこつけないで楽しんだらいいじゃん、みんな友達なんだから、みたいなニュアンスでね。
例えば、呑んだ後にラーメン食べてて、隣の客と腕がぶつかったのを縁に、もう一軒行こか!みたいなノリ。
クラブで盛り上がって、誰とでもキスしちゃう、でも誰も嫌がっていない、オールハッピーな空間。
深夜、家に帰る道すがら、酔いつぶれて道ばたに座ってる人が「にいさん、もう少し呑まへん?」と声をかけてくる普通。

アンダー50 の皆さん。
そんな時代はやっぱりお気に召しませんか?
 
さてと。
そろそろ筆を置きましょう。
りなるさんの声が聞こえてきそうです。

そういうこと言いたかったんじゃないから!