見出し画像

昔のドラマを観ると、男と女が見える

『過ぎし日のセレナーデ』という日本のテレビドラマがありました。
1989年(平成元年)の作品なので、33年前ですね。
視聴率は低かったらしく、再放送もされず、DVD等の商品化もされていないので、知っている人はかなり少ないと思われます。
 
そんな “知る人ぞ知る” ような作品なのですが、おそらく日本のドラマが最も面白かった時代において最も見ごたえのある傑作、と評価する人もいます。
 
最近ふとそれを観たくなって、とある動画サイトで視聴してたんですよ。
そしたら、当時は考えもしなかったことがいろいろと見えてきましてね。
当時の日本人が「男」と「女」をどう描いていたかってことです。


田村正和と古谷一行。

おふたりとも、もうこの世にはおられないのですね・・・

この二人の男が生涯をかけて奪い合う女に高橋恵子。完璧なヒロインです。

当時の視聴者(大人)たちは、この高橋恵子が演じる女をどういう気持ちで見ていたのだろう。
 
二人の男にこんなにも愛されるなんて、いい女だな~と思っていたのか。
二人の男の間を行ったり来たりして、イヤな女だな~と思っていたのか。
 
いずれにしても、この女はモテる、と認めていたと思うんですね。
ところが、今観てみると、違和感がハンパないんですよ。
この女があまりにも軽く扱われている感じがするのです。
人というより、モノ扱いのような。
女が男にモテる、ってそういうことじゃないだろ、と思うわけです。
 
脚本を書いた鎌田敏夫は、終盤で高橋恵子にこんなセリフを言わせます。

私は・・・トロフィーにすぎなかったのよ。
勝利者に与えられるトロフィー・・・
あなたも隆之さんも、私を手にすることが相手に勝つことだったのよ。
でも私はトロフィーなんかじゃないわ。ただの女。

矢沢志津子『過ぎし日のセレナーデ』より

活字にしてみるとかなりイタいですが。
その場面でようやく腑に落ちました。鎌田氏はやっぱりその違和感を描きたかったんだな、と。
ただ、平成元年の大人たちがどこまでそのキモチ悪さを実感していたかは、怪しいものだと思います。


無理やりキスをしたら女は惚れる、とか。

夜の店をやめさせたら愛人になる、とか。

そこまで単純な話ではないにしても「15字以内で要約せよ」と言われたら、そんな話です。
 
そういう時代感覚だった。で、済ませていい話なんだろうか。
このドラマの世界観だけがヘンだったわけではないでしょう。
33年前の日本には、相当イビツな女性観や恋愛観があった。
当時は男たちも女たちも、それを当然のように受け入れていた。
それがたまらなくキモチ悪いのです。
 
古谷一行に迫られ、高木美保は言います。

あたし・・・妻子のある人を好きになったことがあるんです。
そのとき、男の人が私に何を求めているのかがわかったんです。
男の人の求めているのが私のカラダだけだったら気がラクでした。
でも、男の人が欲しいのはカラダじゃないんです。ココロなんです。
自分はココロをくれないくせに、あたしだけがココロを要求されるのは嫌。

田村英子『過ぎし日のセレナーデ』より

これも活字にするとキツいな・・・。
 
ドラマの中のセリフだとしてもですよ。
その時代、男が女をどのように扱っていたのか、女たちがどのような構えで生きていたのかを物語っているように思えてなりません。
 
不実や不倫などを問題にしたいのではなく。
フェミニズムやジェンダー論をぶちたいのでもなく。
もっと単純な気づきとして、昔の人の感覚って今とだいぶ違ってたんだね、って話です。
 
昔の大人たちを批判するつもりもありません。
ただ、現代に生きる私たちは、かつてそんな感覚が男と女の関係を支配していたことを知っておくべきだと思いました。仮に、当時の男女観・恋愛観を現代に持ち込んだら、正常な社会生活を送れないレベルでしょう。
時代感覚をアップデイトしない人は生きていけない、ということでしょうか。
 
現在私たちが当たり前と思っていることも 30年後、いや 10年後には陳腐化しているのかもしれませんね。

この記事が参加している募集

おすすめ名作ドラマ