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資本がまちを変え、まちが人心を変える

ジュネーブに帰ってきたときの印象として、このまちには余裕がある、と書きました。

まちのつくりも、そこで暮らす人々も、私の好みに合っています。
しかし、それは手放しで褒められるほどではないようです。
この 2週間ほど、まちを散策していて、4年前からの変化がいくつか見えてきました。

一戸建てだった民家を取り壊した跡に集合住宅が建っていたり。
路上パーキングだったスペースが自転車専用道に変わっていたり。
個人経営だった飲食店がチェーン系のレストランに変わっていたり。

こんな小さなまちでも都市化の波に抗えないのか・・・。

それでも、まだ救いがあると感じたことがあります。
それは、このまちの住民がこのような変化を心底嘆き、怒っていることです。

一戸建てよりアパートに住みたいと思う人はいません。
地元の飲食店よりマクドやスタバのが好きな人もいません。
つまり、誰一人喜ばない変化が起こっているということです。

なぜ、そんなことが起こるのでしょうか。
それが資本の論理です。
一戸建てより集合住宅のほうが効率的で収益性が高いから、住む人の好みに関係なく作り変える。
個人経営の飲食店はおいしくて人気があるのに、標準化されておらずコスパが低いため、大手チェーンに買収される。

それは市場のメカニズムとも違います。
需要と供給の両サイドで均衡するのが市場原理ですが、資本の論理では需要は無視され、供給サイドだけで決まるのです。
こうして、誰も望んでいない商品、まち、ライフスタイルが作られていく。

資本は暴走する。資本の暴力は人とまちを破壊する。
このまちの住民はそれが直感的にわかっているから、怒っているのです。


クルマを減らして自転車を奨励するような動きは、一見エコでヒューマンな方向に見えますが、車道・歩道・自転車道を明確に分ける発想は過保護社会の顕れとも言えます。この点については賛否両論あるでしょう。

このまちでは、トラム、バス、クルマ、自転車などが共存していました。
そのさまは一見カオスっぽく、危険にも見えました。
だから、お互いに気をつけ合っていたのです。
“安全” という大義名分のもと道路の “整備” が進み、バスレーンとの境に醜悪な突起物が設置され、自転車道も作られました。すると、どうなったでしょう。クルマも自転車も、歩行者に道を譲らなくなりました。
どっちがよかったのでしょうか?

このまちに暮らす幸せな人たちの良心を私は信じたいと思う。
レストランで気さくに話しかけてくるお洒落なお爺さん。
トラムでにっこり微笑みかけてくれるきれいなお姉さん。
バスでベビーカーのお母さんを手伝うパンクなお兄さん。
この人たちはみんな、変わりゆくまちに内心痛みを感じながら、自分たちは変わらないでいようとしているように見えます。
資本の暴力と静かに戦っているのだと思います。
この暴走を止めることはもはや不可能だとしても、そのスピードを緩めることができるのは一人ひとりの人間しかいないのだ。

私は集合住宅に住んでいるし、マクドやスタバを利用することもあります。
せめて、人間らしい営みから得られる幸福感を失わないために、このまちに暮らす人たちの生活態度を注意深く観察していこうと思っています。