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労働と遊びのあいだ。お金は必要か?

情報商材などの有料記事を売ることについて書かれた、困難スライドリボルビング精神さん(以下、困難さん)の記事(☟)を読みました。

一部、抜粋します。

ネットで収益を得ている人の中には、そういう経験を経て「自分のやりたいことで稼ごう」と考えた人も多いだろうけど、やっぱり収益化が最優先になっている人の発信はおかしい。皆にとって有益な情報です!みたいに煽っておきながら、お金払わないと教えませーん!って、人がやってるのは勝手だけど、自分がやったら罪悪感でおかしくなりそう。

本当に有益な情報なんだったら、それは公共財みたいなもので、広く無料で読めるようにしないといかんでしょ、というのがわたしの考え。そもそも、情報商材・ノウハウ系記事を買うくらいなら本買った方がいいわ。だから、わたし自身がそういう記事を売ることはない。

明快。そして痛快ですね。
困難さんは、自分の記事を売ることはないですが、投げ銭スタイルの記事を投稿されています。
「結果としてお金を払う行為であることは同じですが、その対象がコンテンツなのか?作者への労いや応援の気持ちなのか?では全然違う」ともおっしゃっていて、私もそのとおりだと思います。

わたしは記事にかけた労力に対してのお金は、いただけたら嬉しいなというスタンス。もちろん、タダで読んでもらっても一向に構わないし、むしろそれを前提にしている。

このスタンスにも賛同します。

本稿は、困難さんの示唆に富む発信にインスパイアされて、勝手に論を展開したくなったものです。
労力をかけたら、なんらかの報酬(例えばお金)を得たくなるものなのか?と薄っすら疑問が芽生えたんですね。
労力とは、報われるべき何かなのだろうか?と。


休日にゴルフやスキーに行く同僚たちがいます。
私からすれば、あれなんかとんでもない労力ですよ。
長時間を費やして体と頭を酷使する行為です。それなのに、あろうことか、お金まで払っています。

どうしてそんなことするの?と訊いたら、彼らは「やりたいからやっているだけだ」と言うでしょうね。
なんでやりたいの?と訊いたら「そりゃあ楽しいからだよ」と。
さらに Why?を重ねることもできますが、「ゴルフはなんで楽しいの?」とゴルフ好きの人に訊くのは、盛大に時を消費する予感しかしません。

一方、同じゴルフをしながらお金をもらっている人も世の中にはいます。
労力に対する報酬という観点では、こちらのほうがわかりやすいですね。


ここで、「ゴルフは楽しい」と「ゴルフにお金を払う」の因果関係について考えてみましょう。
A) ゴルフは楽しいものだ。だから、ゴルフにお金を払う。
B) ゴルフはお金がかかる。だから、私はゴルフを楽しむ。

ほとんどの人は A でしょうね。楽しいからお金を払ってでもしたいと思う。
B はヘンですか?
お金がかかる行為だから楽しい。
あるいは、お金を払ってやっているから、楽しまなければならない
どうですか?
けっこう思い当たることがあるのではないでしょうか。

同様の考察を「労働」についてしてみましょう。
A) 労働は辛いものだ。だから、働いたらお金をもらう。
B) 働いたらお金をもらえる。だから、私は労働が辛い。

やはりほとんどの人は A だと思います。
「労働=辛いこと」という前提があるから、労働したら報酬を要求するわけです。お金がもらえないなら辛い労働などしない、と同義です。
B はどうでしょう。
お金がもらえる行為だから辛い。
お金をもらってやっているから、辛く苦しい思いをしなければならない。
ラクしてはいけない。楽しんではいけない。他のことを犠牲にしてでもやらなければならない。なぜなら、それでお金をもらっているから。


私は、noteを書くことでお金をいただく気はありません。
なぜなら、お金をもらったら、辛い労働になってしまうからです。

また、noteを利用するためにお金を払う気もありません。
なぜなら、お金を払ったら、楽しむことを強制されてしまうからです。

noteは楽しいです。
でも、楽しいからといってお金を払う義務はありませんよね。
それに、お金を払ったら楽しくなくなる可能性すらあります。払った分は楽しまなければ、と強迫観念が生じるからです。

ゴルフの例を思い出してください。
A も B も真ならば、「楽しいからお金を払う」と「お金を払うから楽しい」の双方向の因果関係が成立します。逆もまた真なり状態ですね。
これは「楽しい」と「お金を払う」が同値になっていて、三重線の合同記号で表されます。

楽しい≡お金を払う

これって現代では常識のように思われていませんか?
ちょっと考えればわかることですが、両者は別のことですよね。
お金を払わない楽しいことはいくらでもあるし、お金を払う楽しくないことも巷には溢れています。


労働も同様です。
「辛いからお金をもらう」と「お金をもらうから辛い」。

辛い≡お金をもらう
 
好きで書いている noteは、お金をもらった瞬間に労働となり、辛い行為になってしまう、と言いました。
それに、好きで書いているのだから、お金をもらう必要もないのです。

労働は、お金をもらうから辛い行為になる。
だったら、お金をもらわなければ辛い行為にならないのではないか。
お金をもらわない “労働” とは、例えば、家の前の道を掃くとか、お祭りの準備を手伝うなど、労働と遊びのあいだにある行為です。

現代の人々は、「楽しい≡お金を払う」行為と「辛い≡お金をもらう」行為の二種類しかしていない気がするんですよ。
本来は「お金を払わず、お金をもらわない、楽しい」行為があるはず。
私の note もそれですね。

お金を払って楽しむ遊び。お金をもらう辛い労働。それらをなくそうとまでは言いませんが、減らしませんか?とは思います。
それがトータルの幸福度を上げる最も簡単な方法だと考えるからです。

楽しい遊びにはお金が必要で、それを得るために辛い賃労働に耐える、というのがこの「二種類」式の基本的な構えと推察しますが、前述したように、お金を使わないと楽しめないのがおかしいと思うんですね。
お金を使わずに楽しいことをして、辛い賃労働を減らせばいいじゃないですか。
GDP は減りますけどね。


「楽しく働いてたくさんお金がもらえるのがいい」とおっしゃる方がいるかもしれません。
でもね。そんな夢のような話を実現している人に会ったことがないんですよ。
そういうのを目指している人はたくさん見てきました。
けど、自分を偽ったまま歳を重ねていくか、欺瞞に気づいて方向転換するかのどちらかでした。

自分の人生とか幸せにきちんと向き合っていないことが不思議なんですよね。
その人の人生を良くするのも悪くするのも、お金と労働の問題が大きいと思うのですが、この二大厄介者とどう付き合うか、真剣に考えている人は少ない気がします。
困難さんも書かれているように、ネットで情報商材を売ってるような人たちや、1日の大半を職場で過ごしてるような人たちは、そんなこと考えたこともないのだろうか。
それとも、いろいろ悩み抜いたうえで、自分の中で折り合いがついているのでしょうか。

労働とお金。
今世紀の中心的なテーマです。
労働は、辛さを和らげる方向と量を減らす方向の2つがあります。
どちらも正しい方向性でしょうが、量を減らすほうをメインに進めてほしいものです。
お金は、一貫して必要性が高まる傾向にあります。
必要性が高まるのは害悪でしかないので、それに抗うのが唯一正しい方向性だと思います。
どう抗いましょうか。
お金のかからない遊びを増やすことがひとつ。
もうひとつは、労働と遊びのあいだにある営みを取り戻すことです。
私の父は、60歳で定年退職してから 79歳で他界するまで、地元の観光ガイドをしていたことを思い出しました。

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